中途半端が嬉しい

決して逆説を楽しもうとするのではない。私の知る限り、刻苦勉励して高邁な目標を達成できる人が偉人になる。妥協せずひたすら自らを鍛え、目標に向かってやり抜くことでしか大きな成果は得られまい。
かくの如く人の価値がやり遂げた成果や社会へのインパクトの大きさで量られるとすれば、私のそれは取るに足りない。むろん偉人になりたいという野心はないし、なれるとも思わない。
なのに、中途半端にならないよう身近にいる人を叱咤、激励することがあったように思う。はなはだ思い上がっていた。今思うと冷や汗が出てくる。
言うまでもなく、私の人生は平凡で中途半端である。実際のところ仕事で何かをやり遂げたという実感はないし、道楽でも同じである。現時点での知識や知恵にしても人並みに届かない。
自分の怠慢を棚に上げ、時間に迫られていると思い込んでいた。ただ能力が足りないだけなのに、よくある言い訳である。
この歳になってやっと肩の力が抜け、もろもろ現実を実感できるようになった。冷静に振り返り、中途半端であることが認められるようになったのだ。少しばかりあくが抜けたような気分になった。これには伏線がある。
これまで年数を費やしてきた小学が、ようやく半ばを過ぎた。これには説明がいる。あくまで設定したゴールまでの半ばであって、青年時代に目指していた宿題からすれば、半分の半分あたり。
中身が伴わないとしても、ボリュームだけなら、やっと手ごたえを感じられるようになった。なにやら嬉しい気分だ。手探りの状態から第一クウォーターを通過したと実感できたわけで、私にしてみれば遥々来たもんだと思える。更にハーフが見えてきたとすれば、なかなか目出度い。
年齢を重ねていくことを思えば、これからも同じスピードで進むとは限らない。確実に視力が衰えていくし、様々な筋力も落ちる。座って入力するだけでも負担になりつつある。幸い、今のところ腹筋や背筋を鍛えれば腰が痛むということはない。
ここまで読んで、騙された気分になる人がいるかもしれない。それほど長く生きながら、結局半分で汲々としているのかという見方もできる。
自分の寸法をしっかり理解できている人なら、人生で出来る事と出来ないことを峻別し、一生で出来る仕事量を悟って取り掛かるに違いない。私はこの点で認識不足だった。
いくつか自分に与えた課題のたった一つなのに、その半分が生涯の仕事量で、そのまさにそのハーフゴールが見えてきただけである。なぜか、その中途半端が嬉しい。

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