生き抜くバージョン

とりあえずテーマを決めて書き出してみた。何としても生き抜く場合とひたすらゴールへ急ぐ場合を考えている。単なる主観の違いというなかれ。今後何年ぐらい生きるか、どれぐらい仕事を続けるかに関わっている。考えるというのは生きている間しかできないのが面白い。
自分らしい生き方を全うするにしても、その意味を見つけることは難しい。生きる強烈な意志が薄れ、何にしても、どっちでもよい気がしてくる。あくまで私の場合だが、子育ては終わったし、世に期待されるほどの力がない身からすると、収束局面にあることは間違いなさそうだ。
やっと年金生活に入り、額の多少にかかわらず、念願の自由で気ままな人生を謳歌している人もいる。それはそれで目出度い。本来の自分を取り戻した気分になっているかもしれない。
残りの人生を世のため人のために生きる人もいる。職人あがりで、シルバーとしてエントリーし、ボランティアに近い仕事をしている人もいる。だが、私の如きはやみくもにやっても人の邪魔をするだけである。
年金だけで老後を支えるのが難しいなら、仕事に精を出すほかない。それもまた幾らか社会とつながりを実感できるかもしれない。
いずれにしても、緩い話である。毎週月曜日になると出社して、毎日ストレスを感じながら働いている人には贅沢だと思われるかもしれない。今のままのうのうと生きていくだけでは申し訳ないような気がしてくる。
いままで大したことができなかったのだから、これから頑張ってどうにかなるわけでもない。細々とこれまでやってきたことを続けるほかあるまい。
晩年だから生きてきた証として、そろそろ若い時からのテーマである自由やら民主主義にどのように取り組んできたのかを反芻しなければなるまい。身の程をわきまえず大上段に振りかぶり、それらが本邦で根づいているかどうかを論ずるとしても、すでに焦点がぶれている気がする。どうひいき目に見ても、一つ一つ苦さを噛みしめる他ない。
幸いというべきか、私はすっからかんの貧乏である。口に糊するだけでも容易でない。見た目とは別に、実際は毎日が背水の陣で、ずっと気分に余裕はなかった。振り返ってみれば、逆に私はこれを支えに生きてきたような気がする。
時間が迫ってきたので、限られた能力で、もがいて生きるしかないか。自分ができることは限られている。周りの人に生かされている感覚かなあ。どうやら恥も外聞も捨てて生きぬくのが私のスタイルらしい。

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