人を愛する
近ごろ、とみに人の本性をどう定義するのかが気になる。むろん一筋縄にはいかない。性善説でいきたいけれども、制度の運営やら個人からも、これだけでは無理な気がする。歳も歳だから、もう避けて通れない気がしている。厄介なことに首を突っ込んでしまったかもしれない。
人はたとえ貧しくとも、食っていけるなら、自分に対して大抵は我慢できるし、社会や国家に対してもさほど過激にならない。
だが、これも多くの場合そうだというだけで、すべてにあてはまる法則ではない。
人はやむにやまれない欲や妄想で人を陥れたり、傷つけたりする。自分を振り返ってみれば、好んでやったわけではないとしても、必ずしも全て行動規範に従って生きてきたわけではない。これはどうやら私だけではないらしい。
『禮記』に「君子之愛人也以德 細人之愛人也以姑息」(卷第六 檀弓上)という文章がある。りっぱな君子ならまっすぐな気持ちで人を愛するのに、細民は姑息な手段をもって人を愛する。この場合の「愛」は「人にやさしくする、恵む」という程度でよいか。
これを引用するまでもなく、この世に君子たる人は少なく、姑息な手段を弄する小人が多い。ただ、これには幾らか各時代の教育水準が関連するかもしれない。
人は自由や平等を求めて血を流してきた。これが個人としても社会としても近代化の目標であったと考えてよかろう。これらをより多くの人に与える制度がよいと考えられてきた。
貧富の差が少数者の自由と多数者の不自由を生むと考え、ヨーロッパでは富の分配を平等にしようとする社会主義や共産主義の理想が生まれた。しかし近代史を見れば、これらが単なるユートピアに過ぎなかったと判明している。
いくら平等を目指しても、貧困の平等に過ぎないのであれば長続きしない。古今東西、システムを動かす人間が上から下まで富をかすめ取るのが宿痾である。幾ら制度を整えても、小人が欲にかられて、抜け穴を必ず見つける。
気が遠くなるほどの歴史を重ね、これほどりっぱな哲学や思想を生みながら、人はやっぱり生身の欲にまみれて生きる他ないのだろうか。
とは言え、長年必死に追い求めてきた心の自由やら豊かさには魅力がある。実際に宗教や家の束縛みたいなものも希薄になっている気がするし、若い時の自分を振り返れば今生きていることが不思議なくらいで、何かと恵まれている。
また個人としてのわがままや道楽が、社会の要素として、受け入れられ易くなっている。若いころの欲が静まっているから、今なら私でも、穏やかに生きていけそうだ。モラルという点では相変わらず薄汚れているがね。