独学

先日、書道の展覧会に行ってきた。たまたま行っただけなのに、展示していた書家本人に作品を一つ一つ説明していただいた。
字体のみならず、余白の使い方にも細かな配慮がうかがえ、熟練したできばえに見えた。書く時の心構えも披露していただき、それぞれの書は必ず誰かを念頭に置いているそうである。人の心を打つには、型にはまらず、自分が感動したものを素直に書くという。
厳しく琢磨し、時に師とまみえるのだろう。彼女には尊敬できる師がいて、言いつけをよく守っている印象をうけた。
自らの視野を広げ、洞察力をみがき、理屈の通った行動をする。これを実践して技量をあげ、また師や仲間の意見を聞く。悪くない。
彼女の作品以外に、彼女の弟子たちの展示もあり、連綿と続いている様子がうかがえた。弟子たちが見学者の案内やら説明などこまごましたことを担当していたようである。
なんだか別世界のような気になって居心地がわるかったが、いくらか羨ましい気がした。
私は、小学に関して、これとは対極の方法を使ってきた。余程のことが無いかぎり、誰かに意見を聴くことはないし、助言を望むことも稀である。また誰かが私をたしなめることはないし、自らをたしなめることもない。
自分の誤りや足りない視点を補うには、的確に状況を知り、できうる限り手順を尽くして修正する。だが、いつも上手くいくわけではない。自分の誤りや欠陥に気づくことは難しい。これには常に気迫が必要で、たんなる理想論にすぎず、長くは続かない気もする。
私の場合は、作業を続けることで、たまたま見つかることに期待する他ない。確かに、人との交わりを通して足りないことに気づくことがある。
『禮記』學記に「獨學而無友 則孤陋而寡聞」(卷第三十六)という文がある。「独学して友がなければ、よるべなく陋習を繰り返し、よい意見を聞くことがまれである」。鄭玄の注は「不相觀也」となっており、「互いに観察して意見を交わすことがない」と訳してみた。今も昔もまっすぐ意見する仲間が要るということか。
だが、私は流儀を変えるつもりはない。オリジナルを旨として一歩一歩積み重ねてきた経緯を大切にしたいのである。手に余る量を抱えてしまうと、消化できなくなることを肝に銘じている。
ネットを使えば相当な情報も得られるし、それぞれの土地には先達がいるので、どうしても都会に出て話をしなければならないわけでもない。

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