いつまでたっても本質を見抜くことは難しい。しかし、幸か不幸か質屋に通うことはなくなった。普段何気なく使っている言葉でも、少しばかり考えてみると、焦点がぼけて闇の中に沈んでしまう。
強烈な欲が減退したからだろう、質素であっても、生きている喜びを感じることがある。漬物を食べ、熱いお茶を飲む。質朴ながら、そこはかとない喜びを感じる。
近ごろは振り返ってみることが多くなった。誰であれ生きものとして年を取ることは避けられない。この意味では、頭が薄くなったり、加齢臭が出てくるのも自然の成り行きである。
のみならず、これだけ生きてくると顔に人格が表れてしまうし、やり続けてきた手仕事の完成度なども問われる。
年をとったからと言って、聖人たりえない身であり、欲が全てなくなるわけではない。
愚かであっても、日ごと倦まずたゆまず作業をすれば、それなりに量はたまってくる。が、目先の利かない私であるから、その内容は殆んどゴミに近い。
自らに課した過大な宿題は未だに棚上げしたままだ。身の程を知らないことはなはだしい。莊子の「智少力劣也」というやつである。
いくら集めてもゴミばかりでは、ゴミ屋敷に住み、ゴミを纏って生きていることになる。
その成果が如何ほどであっても、自らが行ってきたことなので自分に対しても他者に対しても言い訳ができない。
日頃の行いが人となりを決めていくという意味では、量のみならず、質という観点から見ることが必要である。この場合の質は、充実した体という意味が思いつく。
残念ながら、私はこの点をあまり重要視してこなかった。浮世の金や流行に目がくらみ、腰が据わらなかったというあたり。だらだらと同じような日々を過ごし、めったに自ら反省を加えることはなかった。
人の本性を表すなら素質や性質ということになるし、実体を表すとすれば体質などとなる。
「質問」が「問いただす」という意味なら、追求するたちでもないし、たとえ自省してもそれが生かされないので、私には質を伴うことがなかったということになる。
『説文』は「以物相贅 从貝 从斦」(六篇下114)なので、本来「質屋」「人質」など今でも使われる担保の義である。会意字と考えてよい。
「質」は単語として、また質量、性質など連語としても使われた。動詞でも使われ、用例が多岐にわたっている。昔から大切な語だったらしい。
これまで膨大な量に見えた作業が張子の虎で、単なるうぬぼれに過ぎず、質という観点からすると何だかみすぼらしく見えるという話。

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