表札

我が家の表も裏も、観光客が通る。地場産業がさして育たない現状では、観光を柱にするほかないように見える。ひっきりなしに人が通るのは嬉しくないが、いやな顔もできない。
裏を流れる島谷用水は、夏には涼しい風を運んでくるし、冬場になれば除雪した雪の捨て場になる。火事の時ともなれば心強い水源になる。十七世紀に原形が出来上がった用水だが、現在でも十分機能を果たしている。近ごろでは、用水の土手になっている細い路地が「井川小径」と呼ばれ、観光名所になっている。週末ともなると、ひっきりなしに人が通る。 
行きかうことも難しい路地なので、個人や家族単位ならなんとかなっても、団体が動くとなると逆方向からは身動きできない。彼らはきれいな水と魚を見た後、表通りのわが町内へ回ってくる。
近ごろは、ごみを散らかしたり、煙草の吸殻を投げ捨てる輩も減ってきたように思われる。この点では、わりあいモラルが浸透してきたかもしれない。
たまの旅行に出てきたのだから、仲間と声を張り上げて話すのも理解できるし、大勢で道幅一杯に広がって歩くのも、めったに車が通らないから、とり立てて怒るほどではない。
我が家の表札は、恥ずかしながら、かなりりっぱなものである。古ぼけた家に釣り合っているのかどうか。私の姓はこのあたりでは珍しいので、郵便や宅配などで困らないよう、思い切って掛けている。この表札がちょっとした話題になることがある。そう言えば昔も、わざわざ玄関を開けて熱心に読み方を尋ねてくる人もいた。
ここ数年は、ぞろぞろ大勢引き連れて歩くガイドが私の家の前を通るたびに、マイクで「この表札の字を読めるかな」と始める。さらに「めったに読める人はおらず、読める人は百人に一人ぐらい」と挑発する。確かに、読める人はたまにしかいないようである。近ごろでは、別のガイドも話題の中へねじ込んでいる。
こんなことに目くじら立てるのも大人げないが、これが毎日となると事情が違ってくる。私は玄関から一つ置いた部屋で作業しているので、また来たかとなる。
なぜ彼らがこんな些細なことを取り上げるのか分からない。観光だから重い話題は避けたいとしても、他に面白いことがあるだろうに。
私がここに越して住んでいるのは、静かな環境で暮らすためである。読み方の難しい姓もこれに貢献していると感じてきた。ところがここ数年、逆風が吹いている。
作業が順調にいっている時には気にならないが、頭の中が絡まった糸のような時にはイラつき始める。そこへ暢気に我が家の表札を面白おかしく取り上げているのが聞こえてくると、勘弁してほしくなる。

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