自己満足

私の人生では、今までにろくに満足な結果を得たこともないし、これからも得られそうにない。出世や金儲けなど誰の目にも明らかな基準でもそうだし、人間としての完成度などもそうである。また仕事の成果についても、人に誇るどころか、一応自分が設定した基準にすらほど遠いありさまだ。
自分の能力からすれば限られた分野では結構戦ってきたとも言えるので飢餓感まではないが、むろん自分自身が満足できる状態ではない。青年期のごく一時期をのぞいて、自己満足という境地に縁がない。
従って、「自己満足」がテーマになる時には実感がわいてこない。そこで話を細分化して考えてみた。
1 少年時代から今に至るまで貧乏で、なにかにつけ足るということに慣れていない。所有という意味ではそれほど執着しないが、いつも何かが足りない感覚が残っているのかもしれない。
2 実行可能な目標を設定して、これに拘り、達成するごとに自己満足が得られるか。確かにやり遂げた満足感は得られるだろうが、実現したことで得られる喜びの分に限られる。小さな自己満足と呼ぶべきか。これには回りの評価が必要な場合と、そうでない場合があろう。このやり方では次から次へ目標を設定せざるを得ないので、せわしい感じがする。
ならば、分野ごとに最終目標を立て、一生分の目標とするのはどうだ。大目標と言ってもピンと来ないが、長年念願だったことができるようになるとか、人並みに生活できるなどは望外の喜びである。ただ青年時代からこれまでの営為が惨憺たる状態なので、今をいかに充実させても、これでは難しかろう。
3 実感として言えば、自分の無力を知り、懸命にもがいている時にはそれなりに作業が進む。が、倦み弛(たゆ)み始めるや自分も結構なものだとおごり始める。他者の目が届かない場合はなおさらで、私にとって自己満足とはこの語感に近い。
この歳になると社会への貢献と言っても、大抵は口先だけで、たいしたことはできない。だからと言って、その気がないわけではない。ぼちぼちやるしかあるまい。
4 振り返ってみれば、知っていることと知らないことの比率が違いすぎる。知りえたことの何と少ないことよ。満足できる水準までほど遠い。
外から見ても内から見ても時間の軸をたどっても、満足した経験がないからか、手ごたえのある定義ができない。
つらつら思うに、どうやら「自己満足」は私に縁のない言葉らしく、手の届かない概念のようである。だからと言って、日常を楽しんでいないわけではないがね。

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