おぼろげな線

本質は細部に宿る。だが長い間細かいことをやっていると拘りが生まれ、些細なことにはまってしまうことがある。時に俯瞰が必要な所以である。
この間何気なくテレビを見ていると、源頼朝が鎌倉に建てた永福寺(ようふくじ)を取り上げていた。鎌倉市二階堂にある史跡で、ここ数年でかなり発掘が進んでいるらしい。永福寺は開府してすぐに建立されたが、十五世紀の初頭に消失した。中尊寺の二階大堂を模した寺院で、阿弥陀如来が本尊だったと云う。
しばらく見るうちに、なぜか幾つかジグソーパズルのピースがすんなりはまったような気になった。
もともと越前の平泉寺(へいせんじ)と奥州の平泉(ひらいずみ)が関連しそうな気がしてもやもやしていた。字面のみならず、中尊寺の守り神が白山神であることが引っ掛かっていたからである。
こちらでも奥州の痕跡が残っている。上杉系図という史料によれば、石徹白の金銅仏は藤原秀衡が寄進したことになっている。長く観音菩薩と伝えられていたが、近年になって虚空蔵菩薩だと確認されている。
また義経の逃避行についても、越前の平泉寺を経由した可能性がある。同寺は天台宗の有力な寺で、義経一行に便宜を図ったとしても不思議ではない。同寺で情報を収集しておれば、安宅の関への道行きも自然で、勧進帳の段もそれなりに理解できる。このような繋がりからすれば、奥州藤原氏に崇拝された白山神も重要な指標になるかもしれない。
頼朝がこの藤原氏を攻め滅ぼした後、中尊寺を模して二階本堂を鎌倉に建立したわけだから、平泉寺、中尊寺と永福寺が繋がったように感じたのだろう。
鎌倉幕府は承久の乱後、この地へ地頭を派遣することになる。長滝文書からすれば、和田川以北を長滝寺の勢力圏として一応認めたとも解せるので、幕府もそれなりに白山信仰に敬意を払っていたことになる。
やや時代が下るけれども、東氏を滅ぼした遠藤氏が祖師野に建てた八幡神社は鶴岡八幡から勧請したもので、やはり鎌倉に関連する。この地の八幡という名はこれを淵源にしている可能性がある。
泰澄が実在したにしろ虚構であるにしろ、白山信仰が八世紀初頭には現在とほとんど変わらない姿だったことは間違いあるまい。私は、この神仏混交の原点を越前だと考えている。越前における拠点ともいえる平泉寺は、また美濃長滝寺、加賀白山神社の源流であると解せよう。これが奥州、鎌倉に繋がったとすれば、東国への広がりが線として見えたことになりはしないか。
京大阪のみならず奥州から鎌倉まで、郡上もまた大きな時代の流れの中に身を置いている点が確認できたように思う。

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