洞海(くきのうみ)

近ごろ難題を持ちかけられて困っている。北九州の洞海の音義についてである。地元の人なら分かるとしても、こちらでは読める人すら少ないかもしれない。分かる範囲で調べてみることにするが、資料も限られている上、遠く離れて土地勘もない。ということで、私の能力を超えている気がする。
まず、彼がなぜ洞海の名義を知りたいのかを紹介し、問題の有り様を描いてみたい。
美濃のみならず飛騨でも「洞(ほら)」地名が非常に多い。この語源を探るうちに、九州北岸にある洞海湾(どうかいわん)に行きついた。なぜ「洞」という字で「くき」と読むのかを確かめたいそうな。
もともと彼は、郡上における「洞」が周囲を尾根で囲まれ、何本かの川や沢が出る地形だという仮説を持っている。
彼によると、「くき」は周りが一段高く盛り上がっているところで、「歯-ぐき」などと使われる。かくの如き地名としてなら全国に用例があるという。この場合は、草花の茎ではない。
そこで洞海湾の地形を探ってみた。明治以後、このあたりは湾を取り囲む形で、急速に工業化した地域である。継続して埋め立てられ、原形をとどめないほどである。かつての海岸線は、ほぼ鹿児島本線と筑豊本線の内側にあたると云われている。
これを基準にしてみると、一部筑豊線の北側で山を背負うところがあるものの、その他では平野部に囲まれているように見える。この場合、「くき」の語源がこの湾を取り囲む一段高い丘陵地という意味では苦しい。
そこで「洞」の義を探ってみると、『説文』では「洞 疾流也」(十一篇上二056)である。「疾流」は、「疾風」「疾走」などから、「速い流れ」と解してよい。
ただ、この海はまた「岫(くき)海」とも記される。『説文』で「岫」は「岫 山有穴也」(九篇下028)となっており、「穴のある山」あたり。『廣韻』では「洞 空也」(去聲卷四 送一)で、「空(から)」の意味が加わっている。とすれば、「空洞」「洞穴」の意味で使われているとも読める。
ただ洞海が平野部へ湾入していることから、湾そのものを「空洞」とみていることになるので、この意味でも解釈は難しい。
やはり、この海が響灘へ繋がっている点を考慮に入れる他ないように思える。響灘は、東は関門海峡と、西は玄界灘と繋がる急流域である。潮の満ち引きも激しかろうし、「洞」は『説文』の「速い流れ」に魅力を感じる。
とすれば、なぜ「洞」を「くき」と読むのだろう。古語で「くき(岫)」は「山または両岸が迫って狭くなった地形」である。これなら関門海峡にあてはまりそうだし、なにせ急流なので、この語が周辺に「洞(速い流れ くき)」として残存したと解せないか。

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