牛と馬(1)

古代より中国において南船北馬という言葉がある。船と馬は戦いに際して重要な移動手段であり、武器そのものであった。北方における馬はまた様々な儀式においても、農耕における使役動物としても重要であった。
かくの如く北方では農耕においても馬を中心に使役したが、南方では多く牛を使ったようである。
ところが郡上ではまったく逆の様相を呈している。文化の伝わり方が一様でないことを示すだろう。これがまた郡上における宗教上の二大拠点である白山信仰と高賀山信仰に関係しそうである。
だが、なぜ逆なのかを論じるのは壮大すぎるし、白山信仰では牛が重要な働きをするのに高賀山でなぜ牛をタブーとするのかも話が遠大だ。スペースが足りない。そこで一昔前の田舎家を思い出しながら、肩がこらないよう、少しずつ牛と馬に関わる日常を掘り起こしていくのがよいかもしれない。
以前にも触れたように、那比は明治五年(1872年)の村明細帳によれば、家数174、人数1066、馬126を抱える大集落だったが、牛は一頭も記録されていない。家数は現在と左程変わらないらしい。ところが皮肉なことに、今では馬を飼う家も業者もないのに、飛騨牛を飼う家がある。
那比の旧家と言われるところへ行っても馬小屋の痕跡はない。通常入り口を入って右側に馬屋があるものだが、母屋が残っているところでも、すでに改装しているところばかりである。大きな家に年寄りだけ住んで、寂しげな様子だ。盆正月に子供たちが帰ってきて、賑やかになるのだろうか。
タラガ峠を越えるとどうだろう。加部もまた七谷戸の一つに数えられているが、馬4のみで、やはり牛は記録されていない。谷戸になっている板取川と高賀川の出会いは洞戸で、『濃州徇行記』(寛政年間)によれば、牛のみならず馬も記録されていない。
これらからすると、那比の本宮、新宮、板取の加部、洞戸の高賀という四つの谷戸では牛が飼育されていないことになる。確かに江戸時代には伝承が生きていたと言ってよかろう。
ところが、板取川の東岸にあたる高賀、白谷、加部、門出などでも牛が飼育されていないのに、西岸に当たる小瀬見(おぜみ)、老洞(おいぼら)、松谷などでは牛が飼われていた。
小瀬見では馬3-牛2、老洞では馬2-牛14、松谷では馬0-牛7となっている。地形にそれほどの違いはないので、好みというよりは、牛を中心に飼っていたと言えそうだ。板取川の東岸が馬であるのに対し、西岸が牛を中心にするというのが驚きである。これが高賀山信仰の西限かもしれない。

前の記事

つっかけ騒動記

次の記事

滝波山