寒の水

郡上八幡に慈恩護國禅寺という寺がある。観光で立ち寄られた方もいるのではあるまいか。美しい庭で知られており、私も散歩の途中によく通る。
実はかつて「愛宕の話」(2016年05月16日付け)で登場した寺である。その時には幟に書いてある字が特殊な形であることに触れた。
さて、この寺に「日分木地工過去牒」というものが残されている。江戸時代の木地師を中心とする過去帳で、越前穴馬などを含め、郡上一円にいた木地師の戒名が記されている。
これを丹念に見ていくと、いろいろ興味深い記述がある。今回は木地師の多かった寒水を取り上げてみよう。
記録は十八世紀初頭あたりからで、寒水の木地師についても相当言及されている。地名に着目して通読すれば、「寒水」「寒之水」「寒ノ水」「カノミツ」「カノ水」などと記されている。「寒水」は通期にわたり、延享(1744年-1748年)、宝暦(1751年-1763年)あたりから「カノミツ」「寒之水」「寒ノ水」というような表記も出てくる。
これからすれば「寒水」がもともと「寒ノ水」と読まれていたようにもみえる。ところが、「カノ水」は一例、「カノミツ」は二例あるだけで、「寒之水」「寒ノ水」がどう読まれていたのか明らかではない。
これらもまた「カノ水」と読まれていた可能がないではないが、私は「寒之水」を「寒(カン)の水」と読めるのでないかと推測している。
というのは、「寒」を仮名風に「カ」と読むことに違和感があるし、同過去帳に越前穴馬を「越之前州穴間」「越之穴間」と書くことがある。これらにしてもどう読むか定かではないが、前者は「越(こし)の前州(まえつくに)穴間」とでも読ませたいのだろうか。
とすれば越前(ヱチゼン)という音読みを、敢えて「之」を加え、「越之前州(こしのまえつくに)」という訓読みにしていることになる。同様に「寒水」もまた、「寒(カン)の水(みず)」から「かの水」への筋道がみえてくる。この背景に民の願いがあったかどうかは分からない。「寒の水(みず)」にしても一つの解釈であり、逆に「寒の水」から「寒水(カンスイ)」へ進むことは難しいだろう。
明治二十六年(1893年)に郡上八幡で大水害があり、この寺の裏山が崩れ、避難していた人が大勢なくなったという記録が残っている。手元に同寺の僧侶が残した日誌のコピーがある。ここでもまた、結構見かけない字が出てくる。僧侶の間でなら通用しても、一般には音義ともに不明なものがある。
近世においても僧侶は知識階級に属していた。経典などで使われる俗字を使ったり、音訓で庶民を驚かすようなことがあったかもしれない。八幡の北端にあたる戒仏に、「つめた水(みず)」という地名があるらしい。訓ならこれがぴったりする。

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