小駄良の民話三題

今回は少しばかり小駄良筋をたどってみよう。私にとって縁のある地だ。青年時代に八幡へ来て友人の山小屋に通ったのも、小規模ながらシイタケ栽培を手掛けたのも小駄良だった。もう四十年ほど前のことである。
小駄良の民話といえば幾つか思い浮かぶ。昨年書いた「宗知洞の稚児権現」(2016年6月20、27日付け)もその一つで、この権現様は馬を嫌っていた。
今回はまず戒仏薬師から。堂にりっぱな像が安置されている。他にも意見がありそうだが、今のところ是本、宇留良と戒仏が郡上の三薬師になっている。
さて、この部落に馬方の錠助という男がいた。いつもの通り峠を越え、山草を一杯積んで薬師洞にさしかかった。すると馬が突然高くいななくと草を積んだまま錠助の方へ倒れてきたので、山草で耳をしこたま打った。これ以後耳が痛くて仕方がなかった。ふと薬師様のことを思い出し、願掛けに毎日堂へ通った。通うたびに丸石の中央に少しずつ穴を開けていった。そして遂に丸石に穴が開いたとき、いつしか耳も治っていたという。堂の中を覗くと紐で穴の開いた石を括ってある。この場合は馬が疫病神だったわけだ。
戒仏の白山神社はまた奥の宮と呼ばれていた。なんでも、参道に大きな牛が寝そべっていたという。銀さが仕事に出かける途中、参ってから登ろうと参道にさしかかると、見たこともない大きな牛がでんと横になっていた。その牛は、寝そべったまま尻尾を二振りほどすると、大きな声でモーと鳴いた。その声の大きいこと、部落中に響くほどだった。びっくりした銀さは家へもどり、今日だけは宮参りも山仕事もやめようと思ったが、考えなおし、身軽な格好で参道までもどった。大きな牛がまだ大門に横たわっていた。銀さは牛に近づくと、一二歩後ろに下がって目をつぶり、力いっぱい走って牛を飛び越えた。すると牛は嬉しそうに一声モーとなくと、朝もやの中へ姿を消した。
家に帰った銀さが皆にこれを話すと、「そりゃ神様が牛になったんや」「いつもの願が通じたんやろう」ということになった。
比丘尼屋敷は、八百比丘尼とされる。越前の寒村にいた美しい娘が禁断の箱を開けてしまい、永遠の命を生きる羽目になった。少しばかりならまだしも、そう長生きするのは勘弁してもらいたい。
郡上は熊野比丘尼と八百比丘尼の話が拮抗している。この点でもまた南北の文化が交錯していることが分かる。
今回は紹介できなかった鳩畑の嫗(うば)神社の姆も暴れ馬を見事に取り押さえて子供を守る話だし、どうやら小駄良筋は牛文化と見てよさそうだ。そう言えば、小駄良の出入り口にあたる城山がかつて牛首山と呼ばれていた。ただ江戸時代後半からは、牛を飼育する例は記録されていない。

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