名広(なびろ)

私にとって名広は馴染みのある地名だ。乙姫川筋へ散歩に出れば、名広橋を横目に見ながら上流の方へ行ける。またこの橋を渡れば最勝寺から日吉神社へ行くにも簡単で、お気に入りのコースである。
ただ、小さな橋なのでうっかりすると橋名を刻んでいる銘板を見逃してしまうだろう。長年、この地名の語源については全く糸口が見つからなかった。
ここに、近ごろ新説が現れた。「名広は名隠(なばる)が変化した地名です。これは赤谷山城の戦いの際、東常堯が隠れた地であると伝わっています。名隠という言葉から『火が来ない』という希望を込めたものともされます」というものだ。
第一印象は、よく練られた仮説だなだった。ところが、なかなか腑に落ちない。こうなると例によって時間をかけ、手ごたえのあるまで黙して語らずを貫くことになる。なのになぜか気になる。これを機に、私なりに整理してみたい。
1 名隠(なばる)が名広(なびろ)に変化するとは思えない。
確かに古くから「なばる」は、「隠れる」「はばかる」の意味が伝わっている。文献を並べるのも無粋だから、『和名抄』伊賀國の「名張郡」だけ取り上げてみよう。
池邊氏の『考證』によれば、「名張郡」「隱郡」「名墾」「那婆理」「奈波利」」「隱乃山」「隱野」などの表記があるそうな。これらからも、「隠れる」と言う意味があるのは間違いあるまい。
ただし「なびろ」はこれとは対義であって、「名を広める」である。相当上手な説明があるとしても、両者の変化は納得しがたい。また用法上にも疑問がある。
仮に「なばる」がラ行四段動詞でその連用形が「なばり」とすると、連用形がそのまま名詞になっている。「踊る」が「踊り」になるのと同じ。
ところが、「なびろ」が「な-びろ」とすれば、「広(ひろ)-み」「弘(ひろ)-め」などの語幹が名詞になっている。それぞれ名詞にする系統が異なっているわけだ。
2 赤谷山城の戦いでは、安久田を正面とすれば名広は裏にあたり、遠藤方の兵が配置されていただろう。東常堯が隠れる余地があるだろうか。女性たちが逃れて身を投げた地獄谷は堀越旧道の入り口にある。
3 文献の紹介がない以上、なかなか「名隠(なばる)」から『火が来ない』という希望が読み取れない。
隠(なばり)と名広(なびろ)は音義のみならず語法も異なっており、容易に変化したとは思えない。また仮に常堯が隠れたという伝承があるにしても、これに託す地名説話にした可能性もある。
私は、名広から日吉神社の辺りは郡上郡衙の候補地として有力だと考えている。
やはり名広(なびろ)は「名を広める」で、淵源は中世より更に遡るのではあるまいか。

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