カイツ

結構前から岐阜県内のカイト、カイツ地名を取り上げたいと考えてきた。まだまだ手に余るので、ここでは郡上を中心に飛騨筋を併せて考えたい。

この間から取り上げている祖師野は今下呂市に編入されているが、郡上踊りの「かわさき」で取り上げられているように、かつては郡上郡だった。江戸時代は郡上郡東村と呼ばれているものの、私の土地勘では郡上の東南東にあたる。この間、祖師野八幡宮で大般若経の虫干しがあり、少しばかりお手伝いしてきたことは先週書いた。その時にある人から明治三年の地租改正に関わる『美濃國郡上郡祖師野村地券丈量繪圖』(三冊之内二番)という史料を託されていた。今回はそのうちカイツに関連するところを取り上げてみる。

この冊子では「上ミ庭回津」「高回津」「下モ回津」と「〇〇回津」の形なので、「カイツ」ないし「ガイツ」と読めるだろう。江戸時代以前で地名が変わることは稀であるし、また広く使われている地名なので、相当遡れそうである。上の例から祖師野村だけでもこれ以外にかなりあると推定できるし、馬瀬川上流域には乙原村などがあるわけだから、東村全体で十や二十はあったと思われる。

郡上はほぼ「カイツ」「ガイツ」地域であると言ってよい。長良川流域の美並村についてもやはり「カイツ」が殆んどで、板取村に関してもやはり「カイツ」が多いとされる。これらに対し、飛騨川流域は「カイト」「ガイト」地域と言えそうだ。これらをどうみるか。

いずれにしても武儀郡衙に関連するだろう。同郡衙のあった関・美濃地区には「カイト」「カイツ」地名ともに少ないが、飛騨川筋では「カイト」、郡上との境界からは「カイツ」という具合に住み分けがある。これはまず武儀が早くから開拓されており、飛騨川流域がこれに次いで開発され、郡上がこれらより更に遅れたためではないかと考えてみた。高山には飛騨一宮があり、奈良時代に大規模な開発があったようである。これに対し郡上は郡衙の設置もおよそ一世紀半ほど遅れている。

「カイト」「カイツ」は単に方言による母音交替という説もあるが、郡上と飛騨川筋の分布がかなり異なることから、それらに時間差があったと考えたい。万葉代には「カキソト」から「カイト」、「カキウチ」から「カイチ」へ変化していただろうから、飛騨川筋は開拓が八世紀初めごろに遡れそうだ、これに対し郡上は同時期にもまばらに開発が行われていたようだが、軌道に乗ったのが九世紀後半と考えれば郡衙の設置と符合する。

なぜ郡上の開発が遅れたのか俄かには説明できない。私は武儀から長良川を遡る勢力と越前から北濃を経由して南下する勢力がせめぎ合った結果でないかと推測している。「カキウチ」が岐阜県に広げてもほぼ郡上に限られる点はいずれ取り上げてみたい。                                               髭じいさん

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