しゃもじ

鰯の頭も信心からというフレーズがある。イワシの頭も信心する人には尊い。私も似たようなことをやっているので揶揄するつもりは毛頭ない。私の年代で郡上に住む者なら、社(やしろ)や祠(ほこら)で鏡か玉などと共に、ご神体として「しゃくし」「しゃもじ」や河原石を置いてあるのを見たことがある人が多いだろう。実際に見たことがなくても、話を聞いた人なら結構いるに違いない。今回はこれらにも奥深い意味がありげなことを示したい。

「石」という字なら字画も少ないし、小学生でも習うので話が早い。が、だからと言ってその成り立ちが簡単だとは限らない。『説文』では「石 山石也 在厂之下 口象形」(九篇下143)となっており、「厂」の下に「口」で象形字ということになっている。だがこれだけでは「口」で何を象っているのか分からない。

私はこれについて白川静氏の説を一部採用している。これは目口鼻の口ではなく、「祝告の器」を象っているのではないか。「祝告」は言わば祖霊へ告げる「祝詞(のりと)」で、これを収める器が「口」だと云う。とすれば「厂」の下に「祝告の器」であるから、祖霊や神のやどるところ、つまり「磐座(いはくら)」ということになる。従って「石」は本来石ころのような小さなものではなく、信仰の対象となるような大きな岩だった。

本邦においても古くから石が信仰の対象となっており、郡上でも旧東村に岩陰遺跡があるし、和良の九頭宮にご神体と思われる大岩が鎮座しておられる。どちらも巨石だ。いずれにしても巨石の下で祭祀が行われたことを疑う必要はない。「磐隠る(いはかくる)」は貴人の死亡を言うから、死者を岩陰に祭ったことは間違いあるまい。近くは鎮魂の祭りであるとしても、これが継続して昇華すれば祖霊や神となろうし、「石」の語源と底流を同じくする。

「石」は「セキ、シャク」あたりで読まれ、「柘榴(ザクロ)」がまた「石榴」とされるので「サク、ザク」も考えられる。象形のみらなず、形声字と解釈できる余地がある。訓は「いは」「いし」である。

したがって「石神」は「シャクジン、シャクジ」の音読み、「いしかみ、いしがみ」の訓読みが考えられる。私は行ったことがないが、東京の石神井(シャクジ-ゐ)は同名の神社が地名の由来らしい。これは「シャクジン」の「ン」が開母音化に関連して消えてしまった例だろう。いずれ諏訪の「ミシャグジ神」にも触れてみたいと思う。

振り返ってみて祠のご神体が「しゃくし」「しゃもじ」なのは、食の神として祀ってあるのかもしれないが、この「シャクジ」の零落したものが多い気がする。

いくつか川原石を置くだけのご神体については全ての物に神霊が宿ると考えれば何の不思議もないが、何か物足りない。巨石信仰が薄れ「石(いは)」が零落して石(いし)を連想するようになれば、尊さは残るとしても、「ただの石ころ」をご神体にしているように感じてしまう。                                               髭じいさん

前の記事

灯油騒動

次の記事

九頭