年を取るということ

私にはもう親はいないし、死に分かれた兄姉もいる。知り合いや友人の顔を思い浮かべても彼岸へ渡った人が過半の印象である。年を取るというのは浮世に残されていくことに他ならない。

私の周りには若い人の影があるものの、付合いとなればやっぱり同年代になる。近所には年寄りしかいないし顔見知りも同じだ。友人も四五十年来だし、当然と言えば当然かな。優雅かどうか別にして年金暮らしをしている人が殆んどだ。他方年金では足りないとして、本気の百姓もいる。私は細々でも暮らしていければ上出来の部類である。

仲間が寄るとまずは健康に関する話、これが一通り終わると百姓の話に移ることが多い。正月や盆には子供や孫がどうとかこうとかになる。

新型コロナについては、情報が入っていない人を除けば、全員三回目のワクチンを終えたようである。我々の世代は一二回目がファイザー製、三回目はモデルナ製と聞いている。副反応のきつかった人もいたが、無事に通過できてまずまずだろう。年を取って体力が衰え、やれ足や腰が痛いだの、目が見えなくなったのと文句が多くなるのは仕方がない。温泉行を共にする友人達は、大半が何らかの薬を飲んでいる。所謂生活習慣病というやつだ。高血圧症や肺気腫などの内科系は、薬が合っているからか、小康状態の人が多い気がする。

足腰が弱るのはやむを得ないとしても、関節などが痛むのはかなわない。まだまだ動きたいので籠ってしまうわけにはいかない。緩いスポーツをやったり、根気よくリハビリを続けるなど健気な様子である。やっぱり百姓をすることが念頭にあるようだ。私は運動不足で内臓の働きが悪いのか、食べるのも排便することも難しくなった。既に食が細くなっており、御馳走の種類も概念も変わってしまった。なるだけ外へ出て歩くようにしたい。

この間隣の奥さんが漏らした、「年をとると良いことがない」という文句が未だに腑に落ちていない。そこで若い子たちに彼らが年を取って益々ハッピーになるイメージを描いてもらったところ、健康で孫と楽しく遊んでいる像が浮かんだようである。

健康については、私を含めこの地に居る友人達はまずまず動けるし殆んどこのハードルを越している。年寄りの幸福に必ず孫が要るとは思えないが、たまに孫の顔を見るのも悪くない。この点奥さんは体の不調を訴えるとしても動けているし、所帯が大きくて、ひ孫も生まれているわけだから文句のつけようがないではないか。まあ心の奥底までは分からないがね。

若者達のイメージについて言えば、彼らはきっと配偶者を見つけて子供が授かるようにしなければならないが、本当の所は分からない。                                              髭じいさん

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