今更

言葉には言霊が宿る。歌や詩など印象に残る表現だけでなく、日常の営為に根差すものにも簡単には消えない力がある。

週の半ばから、今更という言葉がこびりついて離れない。友人との話の中で書き言葉の無い文化について話していた折に、自分があまりに字や書物に拘った人生であることに驚いたのが発端だ。彼らが書き言葉を持たないのは自身の選択であったのかどうか。文字を持つ文化の周辺であれば十分準備できていただろうに、自ら望んで文字を持たないかのような場合もある。

書いたものに幾ばくかでも普遍性があれば、書いた人が亡くなっても後世に残る。更に書写を重ねれれば長年残ってしまう。文字があれば今に至る過程を知れるとしても、共同体が大きな国家に支配されそうになると、これが利用されて、簡単にねじ伏せられてしまう。つまりは文字情報のせいで自分たちの自由が制約されかねない。こう言う例は思いのほか多い。

自らが支配する側に立つのであれば、その正当性を示すため、勝者としての記録を残す必要が生れる。強力な国家が生れると、その生まれた経過やら、政策の正しさを裏打ちするための物語がつくられる。自分たちの依って立つところが神聖であって何人であれ犯すことができない等という理屈を帯びる。実際、官吏や軍を整備したり戸籍を作って税の体系を調えたりするにも文字は必要だろう。

他方支配されそうな部族にとっては、自らの文字情報が捻じ曲げられ、簡単に取り込まれかねない。支配から逃れるには、自らを縛り付ける文字やら土地から離れなければならない。彼らにとってアイデンティティを保つには口頭で伝承すれば十分であって、事細かに記すことはない。

自由のためには敢えて文字をもたず、支配者の戸籍には入らないという選択肢があった。失うものも大きいが得るものも大きい。大きな国家の縛りを受けず、文字のこだわりも捨てられる。本邦でも読み書きができる人のそれほど多くない時代には、囲炉裏ばたで爺婆が子供たちに昔話をして伝承するようなことがあった。

振り返ってみれば、私の生活は文字と切り離せないし、活字病と言ってもよい程だ。見慣れた山川の美しさを言葉で表そうとするのが性癖だとすれば、そんなことは早くやめる方がよい。まずはそのものとして満喫するに及ばない。

若い時ならこれを機にじっと反省して、活字とほどほどの距離を置けるようになるかもしれない。が、今更気が付くのが遅い。ある程度は国家の権限を認める外ないし、記録を基にした市民社会から抜け出す気にもなれない。文字に囚われたままゴールを目指すよりない。                                               髭じいさん

前の記事

年を取るということ

次の記事

郡上の垣内