比丘尼など

多少余裕のあった一時期を除けば、私の一生は貧乏神が離れずついて回った。貧にいて道を楽しむとまではいかないとしても、何かにつけ貪ることが少なかったからか、気楽な人生だったとは言えそうだ。

「貧」という字を取り上げてみよう。現代ではどのように解釈されているのか分からないけれども、かつては「貝」「分」の会意だったと言えば意外と感じる人がいるかも知れない。取りあえず、意味符を合わせて新たな意味を作り出すのが会意と言っておこう。

「貝」はそれ自身海などに居る生き物だが、中国では古くから宝ものとして珍重され、周代には銭として通用し財貨とみなされていた。戦国時代から秦に至り通貨としての機能は失ったが、文字としてはその痕跡を遺している。貝のつく字は凡そ財貨に関わり、「貧」もまたしかり。としても「分」が少し分かりにくい。

私は郡上でもしばしば使われる「たわけ」がこれに通ずると考えている。「たわけ」は「田分け」で、田を分けず長子へ引き継げば何とか食つなぐことができるのに、田を子供たちに分けることにより、皆食えなくなって家が滅びてしまうことを戒めているのだ。「貧」もこれと同じで、財産を分けてその核を失ってしまうことで、一族みな貧乏になることを戒めている。

これらからすれば、長男に家督を譲るとして、二男三男は単なる労働力として家に残るとか、未開の地を開墾するとか、町に出て商人や職人になるという具合である。女性の場合もこの原則は変わらず、嫁として地元に残れるのは恵まれている方で、奉公に出たり、食えずに尼さんになったりした。

尼さんになった人でもいろいろだっただろう。其の地では食えなくなった人もいただろうし、修行などで各地を巡る人もいただろう。

郡上でも小字として「比丘尼(びくに)」という地名が結構ある。八幡小野、八幡相生などである。地名として残っているのだから、何らかの縁でこの地に住み着いたことになる。

郡上では八百比丘尼系と熊野比丘尼系があり、大まかには吉田川以北の八百比丘尼と以南の熊野比丘尼に分けられる。前者は恐らく越前から伝わったと思われ、通称地名まで含めれば結構な数になる。後者はその分布からすれば、美並や和良から伝わったと考えてよかろう。熊野のお札を売りながら各地を回ったようである。

美並白山に「辨在(べざい)」という小字がある。「べ」で始まる和語は割合少なくて、地名でも珍しい。擬声語や擬態語の他、漢語など外来語が多いとされる。

また「弁在」と書くこともあるので、「辨在」は「弁在天」のことだろう。「弁在」「弁才」は通じ、「弁才」は弁才船を指すことが多いが、それほど大きな船を造っていたとは思えないので、ここでは売春婦を指すのではあるまいか。そう言えば比丘尼にも、村の若衆が足しげく通う色っぽい話が残っている。                                             髭じいさん

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