九頭

ネットで「九頭竜」を検索してみると、「くずりゅう」となっていて「くづりゅう」では出てこない。「頭痛」もやはり「ずつう」で変換して、「づつう」ではだめである。書きなれてしまうともはや疑問を感じなくなってしまうものらしい。

「九頭」の場合は『古事記』等に登場する「吉野の國巢(くず)」が基準となって、これに類するものは全て「くず」と読むようになってきたからかも知れない。つまりはすでに記紀の著者たちが「ず」「づ」の区別ができなかったか、或いは何らかの意図があったと考えられるわけだ。

また現代では、ほとんどの地域で「ず」「づ」に発音上の区別はない。従って、言文一致の考え方からすればどちらかに統一してもおかしくない状況になっている。

だが「九頭竜」は「頭」の表記からして「くづりゅう」と読むのが自然である。郡上和良にある戸隠神社は、これまで一般に「九頭(くづ)宮」と呼ばれていた。恐らくこれと関連すると思われる飛騨筋上呂の「久津宮」は「久津」だから「くづ」と読まれるのは間違いない。

つまり「國巢(くず)」と書かれるものと、「九頭(くづ)」「久津(くづ)」とされるものが混在する。同一の義とすれば、互いに音の理解が異なる人たちが別々に表記したものだと考えてよかろう。

諏訪大社を構成する主要な四社ではないが、前宮へ参る手前の「葛井神社」が気になっている。パンフレットのルビでも「くずい」だし、古語辞典をみても「くずゐ」と読みそうだ。ところが「葛」は「葛飾(かつ-しか)」や「葛根湯(かつこん-とう)」などからすれば「くづ」と読むのが自然で、これを命名した人は「くづ-ゐ」と読みたかったのではないか。これを「くずゐ」と読むのは、「ず」「づ」の区別ができない人の読み方であって、この音が広く認知されてしまった結果だろう。

とすれば「九頭(くづ)」「久津(くづ)」「葛(くづ)」が同一の神名になりはしないか。『古事記』の「國巢(くず)」では尊敬の念が生れないが、「くづ」は自らの神として祀っている気高さを感じる。

それでは「くづ」の原形はどれか。私はやはり「九頭(くづ)」だろうと思う。音を辿った説ではあるが、数ある字の中で「九頭」を選んだには何らかの必然性があろう。私は、以下二つの可能性をみている。

1、「九つの頭の蛇、ないし龍」

2、『説文』で「九」は「昜之變也 象其屈曲究盡之形」(十四篇下110)で象形と解する。何の屈曲したものかは不明ながら、まず虺蛇の形とみてよかろうから、「九」そのものを「蛇」とみて「蛇の頭」とする。 牛頭(ごづ)と同じように解するわけだ。                                              髭じいさん

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