月の影

題名からすれば、月に雲が掛かっていることを想像するだろう。落ち着いて月を見ることが少なくなってしまった。人間に拘りすぎると、周りが見えないという事かもしれない。
井の中の蛙は、海の広さは知らないとしても、空の高さは知っている。ある中学生が面白いことを言う。「夜、自転車に乗って走ると、月明かりで自分の影が見える」というものだ。
彼の住む地区は、山の中と言ってもよい田舎にある。街灯もあまりなく、灯りの届かない所はそれこそ真っ暗だ。星も、数える気が起こらないほど見えると言う。また夜になると道に猪や鹿などの獣がよく出るらしい。
確かに、秋や冬になると、月が冴えて大いに暗がりを照らすことであろう。こういう時代が長かったのである。彼がなぜ夜自転車を走らせるのかは聞いていないが、月明かりを頼りに、農道を自転車で走ると言う。
月光の下で自分の影を見つけたことを嬉しそうに話すのが、まっさらな感性というものだろう。私の住む八幡町の街中では、田舎とは言え、それなりに明るい。しっかり見たとしても、星の数はさほどでない。また自分の影を見るとしても、街灯によるのであって、月明かりでというわけにはいかない。
月と星の下、誰も居ない所で自転車と自分の影を実感できるのは、彼が空の高さを知っているからだろうか。私は海辺で育ったから、多少海の広さを知っているつもりだ。空は、遠くの水平線に目を遣ると、海と一体になってしまう。だから、私が空の高さを皮膚で感じ取っていないということかもしれない。少なくとも彼の感性は、私がもともと持っていなかったものであるか、或いはとうに失ったものである。

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