今と過去

生きているものは、全て、今しか存在できない。もう昨日は生きられないし、明日を今生きることもできない。こんな当たり前のことを大げさに言うのは、今の自分を計ってみたいからである。
日本国の借金は、今や六百から七百兆円になるという。国民は国家予算の十年分程借金を背負っている。これは、過去の負債が蓄積されて、今総額になっている例である。この場合国家は、形而上の抽象であり、過去から今まで継続して存在すると仮想されている。
これに対し、生き物である人間は実際に同じ状態で継続することはできない。常に千変万化の生老病死に直面せざるを得ないのである。
今の私は、確かに過去の蓄積という意味がある。私は、誰かの子孫であって、ひ孫であり、孫であり、子であり、夫婦の片割れであり、親であり、じじいである。
また、私は社会の一員であり、民族の一員であり、国家の一員であり、国際人である。これらがどれ一つをとってみても短時間で出来上がったものでないのは、私でも分かる。
だが、ここで述べたいのは、私が自分で選んで今に至った私らしさのことである。私の感じ方、私の考え方、私の行動の仕方は他の誰のものとも異なる。私の生き方に説得力があろうと無かろうと、私が私であることに変わりはない。
個性は、様々な個別の事情によって生み出される。また個性は、生き物であることを前提にしており、法則性が通用しないことも多い。少なくとも私にとって、この世は今の連続であり、私に固有の事情で生きている。だとすれば、個性は整合性や法則性で割り切れなくて、これらから余ったもので出来上がっているのではないか。
私は、過去の蓄積を公私共にそのまま引き継ぐこともあるし、必要であればこれらを抽象してごみ箱に捨てる覚悟もできている。ただ、個として、誤りを恐れずに自分の判断を優先したいのである。
若者よ、自分が余りであることを恐れてはいけない。余りであることを楽しんで、容易に割り切れない個性を育んで欲しい。

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