気恥ずかしいが、『万葉集』の歌を一つ。女性の作だと思う。
「まそ鏡 手に取り持ちて 見れど飽かぬ 君におくれて 生けりとも無し」(3185)
私は少年期から鏡を見るのが嫌だった。理髪店には前に大きな鏡があり、なるべく見ないようにするのに苦労した。今もその後遺症が残っており、髭を剃る時も鏡を見ない。
なぜ鏡が嫌なのかを自分で分析をしたこともあるが、その内容はもう忘れた。
今思うと、自分の顔や姿が欠点だらけで、また表情も好きではなかった。早い話、自分を主役にした映画を見ているようで、自分を見る基準が高かったのだろう。
冷静であればある程、自分が好きになれなかった。鏡が外形のみならず、うそ臭い精神をも映し出すように感じていた。精神が分裂してまだ準備できていないのに、突然自分の真相を見てしまうことが恐ろしかったのだろう。実体のない論理とか洞察力を優先するあまり、自分を見つめる視点がぐらついていたのだと思う。
今ではだいぶ世間慣れもし、づうづうしくなって、一応冷静に鏡に映る姿を見ることもできる。幸い、自分が狼や虎に変身した姿を見たこともないし、またコガネムシになった姿も見たことがない。この年になってやっと、鏡が単なる道具であることも実感できる。
それでも、なるべく目を細め、像から距離を置いて、映っている必要な所だけを見ようとする。
私は、自分を寸法通り見るのが嫌なわけではない。むしろ、このテーマを正面に据えて暮らしており、生涯をかけての宿題にしている。このコラムも、ある意味では、自画像になっているかもしれない。
顔には人の歴史が刻まれると言う。だが、今までの鍛え方が半端であったからか、よく自分の正体を見失う。結局のところ、私の精神はアメーバのように瞬時にして形を変えてしまうので、或いは自分の年輪や生気を見ることなしに終わるということかもしれない。

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雪かき