『説文』入門(13) -宮考-

少しずつ宿題を片付けていかなければならない。人物画像鏡に「意柴沙加-宮」、稲荷山鉄剣に「斯鬼-宮」とあってそれぞれ「宮」が使われており、取り扱っておく必要がある。
『説文』では七篇下099に「宮 室也 从宀 躳省聲」とある。許愼は「宮 室也」と説く。『爾雅』釋宮で「宮謂之室 室謂之宮」とするから、転注の解とも考えられる。
「从宀 躳省聲」だから形声字で、「躳省聲」で「呂」が「躳」の略体であると云う。「从宀」だから宀冠部かと思いきや、「宮」自身が部首になっている。『説文』の部首は多く、五百を超える。
音について段氏は『廣韻』を踏襲して「居戎切 九部」、『集韻』は『玉篇』を踏襲して「居雄切」である。まあ仮名音で言えば、「キュウ」「クウ」「ク」辺りで、「グウ」は慣用音としておけばよかろう。
今回は、「意柴沙加-宮」を「オシサカ-クウ」辺りの音か、「オシサカ-の-みや」と訓で読むかという話である。私は、画像鏡が百済で製作されたと考えており、また「宮」が『古事記』の仮名に無いことから、音で読んでいる。
だがこれを列島での製作とし、「意柴沙加-宮」「斯麻」「今-州利」は固有名詞だから仮名で書いているだけで、一般名詞の場合は訓で読むことがすでに慣用されていたという意見もありそうだ。この場合、それぞれ「大王」は「おおきみ」、「意柴沙加-宮」は「オシサカ-の-みや」、「癸未年」は「みづのと ひつじ-の-とし」と読むことになる。私はこの時代に漢語の一部を訓で読んでいた可能性まで否定するわけではないが、事は金石文である。「男弟王」に至っては、その訓すら定着したものはない。
仮に訓で読むとすれば、「意柴沙加-之-宮」「癸未-之-年」辺りに表記すると思われるので、私には違和感がある。「斯鬼-宮」も同様で、訓であれば「斯鬼-之-宮」になっているのではあるまいか。
これは、いわゆる金印の「漢委奴国王」を「漢-の-委-の-奴-の-国王」等と読むことにも関連する。これが後漢朝によって製作されたことは間違いなかろうから、銘文は漢語である。確かに「漢委之奴国王」となっていれば、「委」「奴」を倭語とも解せるだろうが、実際はそうなっておらず、漢語で「漢-委奴国-王」と読む外ないように思われる。用例を検討しなければならないとしても、漢語で倭語を用いるのであれば仮借の用法しかなく、それぞれ一音節の二単語を何の脈絡もなしに連続して仮借字にすることはないのである。