人物画像鏡(20) -日十大王年の比定-

前回「男弟王」を顕宗天皇にあてたのだから、「日十大王年」は彼の兄である仁賢天皇となる外なさそうだ。そこでこれまでの経緯をおさらいしておく。この仮説では、まず「日十」を「日夲」つまり「日本」とし、人物画像鏡(16)(18)で「大王」を漢語に解した。
また「年」は、
1 「国名-王-名」の用例
2 「癸未年」の「年」とかぶる
3 実際の年代が記されていない
の理由から、大王の一字名と考えている。
「癸未年」「男弟王」や「意柴沙加-宮」の「宮」も漢語だろう。また「日夲」という国名自身も、「扶桑」と同様、漢語として使えそうな連語である。だが「宮」は、日本国でもそれとして使っていた可能性がある。
『説文』で「年」(七篇上235)は、「秊(年) 穀孰也 从禾 千聲 春秋傳曰 大有年」で「穀孰也」とするから、縁起のよい字だ。『玉篇』『廣韻』もほぼ『説文』の定義を継承している。段氏玉裁は「大有年」について『穀梁傳』を引き、「五穀皆孰爲有年 五穀皆大孰爲大有年」と解説する。つまり、五穀が皆熟すことを「有年」、大いに熟すことを「大有年」とするから、王名として相応しい字とも考えられる。
よって、「癸未年」「大王」「男弟王」及び「宮」も漢語だろうから、文脈上「年」という中国風の一字名であってもさほど無理はないように思われる。
紀記で仁賢天皇が中国風の一字名を名乗っていた形跡はないが、史料評価上、金石文が優先する。とすれば、この時期の日夲国には既に漢語の文字文化が入っており、国主自ら率先してこれに浴していることになる。『宋書』高句麗条で王が「高璉」と記され、一字姓一字名となっている。「日夲国」つまり日本国と扶桑国が同一の実体を持つとすれば、仁賢天皇の一字名は高句麗から扶桑国に制度や仏教が伝わったことに関連するのではないか。

次の記事

仮説