人物画像鏡(23) -顕宗天皇以前-

紀記共に顕宗天皇の前は清寧天皇ということになっている。『古事記』によれば、清寧王の死後、飯豊王が葛城の忍海の高木の角刺宮に「坐」したという。王位に即いたのである。これが『日本書紀』では、皇太子の億計王と弘計王が王位を譲り合ったので、「天皇姉飯豊靑皇女於忍海角刺宮 臨朝秉政」となっている。この中にある「天皇姉」は不審で、『古事記』では市辺忍歯別王の妹となっている。彼女は意祁王と袁祁王の後見人となるのだから、『古事記』のほうが理屈にあっている。
「臨朝秉政」は臨時に国政をとったという意味で、この場合『古事記』と同様、飯豊王が皇位についたと考えてよかろう。
私は以前から、山部連の小循が二王子を発見した時に、「其二柱王子 坐左右膝上」(「その二柱の王子を左右の膝の上に坐せて」)という『古事記』の文が喉もとにささっていた。清寧在位が五年だから、袁祁王(弘計王)が志毘と女性を巡って歌垣するのも、天皇位に即くのも幼すぎるという印象があった。
私は人物画像鏡を読み、「男弟王」を乙祁王(袁祁王)にあてる仮説から、これを見直してみる機会を得たのである。以下は混乱を避けるため、『日本書紀』の年紀を基本にしてある。
清寧死亡を484年とすれば、画像鏡から503年あたりに乙祁王(袁祁王)が即位しており、ほぼ20年の空位ができてしまう。『古事記』によれば、顕宗天皇は38歳で死亡しているから、30歳前後で王位についたことになる。
『書紀』によれば、二王子が清寧二年(481年)に発見されたとされる。清寧天皇が即位2年で自らの後継者を諦めるのも奇妙だが、一応これを基にすれば袁祁王が8歳前後、また『古事記』では清寧死亡の484年あたりだろうから11歳前後となり、発見時のエピソードが整合性を持つことになる。
乙祁王(袁祁王)の即位を503年とすれば、意祁・袁祁二王子を成人させねばならず、飯豊女王による「臨朝秉政」が長期にわたったと推測できる。
これらを整理すると、それぞれ清寧天皇(480年-484年)、飯豊靑尊(485年-502年)、顕宗天皇(503年-510年)となる。ただ『梁書』で齊永元元年(499年)の段階で乙祁王の名が記されており、飯豊王の晩年、意祁・袁祁の兄弟が実質上政権を担っていたとも考えられる。