見慣れた風景

玄関から出るとき見る向かいの家、毎日見る山や通勤するときに通る商店街など、ふだん特に注意して見ているわけではない。昨日見たものと変わりないように見える。むしろ、変わったことがあればすぐ気づくほど見慣れているというべきか。
だが、これは浮世の幻覚にすぎない。幸い私は、大病もせずほどほど健康に生きており、裕福とは言えないまでも今のところ何とか三度の飯も食べている。しかし、これらは恵まれているだけであって、当たり前とは考えていない。
私のようにその日暮らしをしていると、一日一日で体調や気分がすっかり変わってしまうこともあるし、確実に明日が来るとも限らないという気になる。だからと言って、どきどきして偶然を楽しんでいるわけではない。
ふと見れば庭の雪が解け、水仙が芽を覗かせているし、この間一瞬だが鶯らしき鳥を見た。段々日も長くなっているし、卒業や入学の話も聞く。毎日見ている景色なのに、昨日と同じではない。
落ち着いた生活をしたいので、昨日と同じように見たいだけかもしれない。この世の苦しみや不安にふたをして、昨日と同じように生きたい、昨日よりもっと豊かに生きたいという欲で周りが見えなくなり、見慣れた景色に見えてしまうのだろうか。自分を見失うと、心を閉ざし関心事が自分だけになって、実際の移り変わりが見えなくなる。今日生きている不思議さや、今見る新鮮さを失ってしまえば、世の中の変化が目立たなくなる。
ここで暮している間だけでも、子供が生まれて成長し、知り合いや友人が死に、私は年老いた。都会と比べればゆっくりではあるが、町の姿も大分変わってしまった。
デジャ・ヴ-という言葉をご存知だろうか。一度も見たことがないはずなのに、以前見たことがあるように感じることがある。遠い前世の記憶と考えられないこともないが、私の場合、目が雲って細かい違いが見ぬけなくなっているだけかもしれない。