紅葉見物

爽やかな秋というよりは、山の中はすっかり晩秋だった。今年は旧友と温泉に行けることになり、その道すがら、たっぷり紅葉を見物できた。
郡上からせせらぎ街道を北上し、清見あたりではすでにやや時期を失した様子であった。西ウレ峠では雪がちらついていたし、白樺の葉は既に殆んど落ちていた。カラマツの黄色も鮮やかさを失っているように見えた。
だが私は、気の早い葉が落ちてしまった木が寂しげに並んでいるのも悪くないと感じた。うがった見方をすれば、還暦を迎え、自分の姿を投影させていたからかもしれない。
馬瀬に入ると、まだまだ紅や黄色の葉が斑になって華やかであり、たまに混じる常緑樹が新鮮に映った。私は、全山紅葉というより、たまに緑が混じっている方が変化に富んで味わいがあるように思う。とは言え、山主が杉檜を麓から山頂辺りまで同じ幅で植林していたりするなど、無粋な常緑は興ざめである。
翌日、ダム湖周辺まで下ると、上が紅で下が緑の、まだすっかり紅葉していないもみじを結構目にした。桜の七部や八部咲きが盛りだとすれば、これを紅葉の盛りと言うのかもしれない。
目についたのはカンバや楢の黄色、ドウダンや楓の紅。クヌギは赤茶けた黄色あたり。
朴は大きな葉が乾いて縮んでしまい、裏が白っぽく見えて、艶消しだという意見もあった。だが、私はすすけた茶色の表も骨だらけの白い裏も、潔さを感じてかなり好きである。小さめの葉が重なっているところを歩くと、さくさくと音がする。朴の場合、しっかり乾燥していれば、心持ち大きい思い切った音がするのも心地よい。
紅葉狩りの楽しさは、錦のごとき華やかな一瞬の美しさを愛でることにあるのだろうか。確かに冬の雪山を思えば、紅葉の盛りを祭りのように楽しみたいと言うのも分かる。
だがそればかりだけでなく、盛りを過ぎてまばらに裸の木が見えたり、木枯らしがすっかり葉を落としてしまう直前に全山枝が骨のように見えるのも得がたい。
これら以上に、古い友人達と共に紅葉を愛でたことが更に興趣を深くしたと思う。わいわいがやがや山の移ろいを話題にしながら旅したことで、いっそう心楽しく華やかになった気がする。同じものを見ても、シチュエイションが変われば、すっかり色合いが変わることもあるのだ。
とにかく地味な生活に彩りを与えたことは間違いない。