葬式代

裕福な人ならいざ知らず、私のような経済状態の人間にとってなかなか難しいテーマである。それにしても迷う。これが庶民というものか。
郡上でも、葬祭会社に頼んで、通夜や葬式を斎場で行うことがめっきり多くなった。昔のように班や隣組が仕切って、坊様の手配から焼き場まで面倒みるというようなことはなくなってきた。せいぜい、駐車場の係りとか受付をするあたりまでに仕事がかぎられてきている。
確かに近所の人が仕事を二日も三日も休まなければならないことが減って、喪主の側が気を使うようなことがなくなってきた。サラリーマンなら、そんなに簡単に休めないだろうから、有難いかもしれない。
だが他方では、近所の人がお互い様のこととして労力を提供し、できるだけ遺族の負担を軽くしてやろうというシステムが崩壊してしまったことになる。これなら善悪は別にして、お互いドライな関係がつくれることは間違いなかろう。これはこれで時代を映しており、納得できないこともない。
ところが、このやり方では、すべて業者任せになってしまう。細かな式次第が、始めから終わりまで、すべて費用として遺族にかかってくるのだ。
加えて、経をあげてもらう坊様に応分のお礼もしたいし、戒名の費用などを考えると、気が遠くなるほどの金がかかる。この歳になると、当然ながら怪我や病気が余計に心配で、ゴールが目近かに迫っていると感じざるを得ない。
長患いしないかぎりそれほど金はかからまいが、蓄えも葬式代に足りないとなれば、なんとかしなければならないと感じてしまう。そこで、死亡時にあてる費用が出る生命保険をかけようかということになる。
だが待てよ。私もまた人並みの葬式をしなければならないのだろうか。私の望みは棺桶に骸を延べ、望む者だけが通夜をし、一日たてばすぐ火葬してもらいたいだけである。
葬式をしないと遺言するのは極端だとしても、祭壇や花はいらないし、極楽浄土へなんぞ行きたいと思わないからお経もいらない。誰も恨んでいないし、心配する必要は何もない。何も供えなくてよいが、なぜか線香を立てるぐらいは気にならない。無論、香典など受け取ってはならない。少しばかりの金は用意しておく。
ただ忘れずに死亡届を出してほしい。安堵して分かれたいからである。これぐらいなら、無理をせずとも、この世とおさらばできそうな気がしてきた。
ただ、葬式は死亡した人を送るものではあるが、他方では残された者が穏やかに生きられるよう、周りの人に認知してもらう場でもある。とすれば、もう少し残された者が選択する余地があってよいかもしれない。

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