極楽浄土

今回は酔いどれ爺さんの卷である。きのう飲んだ酒がまだ残っているようだ。一昔に比べ、世は酒飲みに対し厳しい目を注いでいる。今日も、酒気帯び運転で、歩道を歩いていた子供をはねてしまったというようなニュースが報道されていた。真面目に読んでいただく立場にありながら、こういった書き方が許されるかどうか分からない。
この世は憂きことのみ多く、なかなか思うようにいかない。となれば、この世はそこそこにして彼岸に期待してしまう。が、彼岸といえども地獄と極楽があるそうで、行けばなんとかなるものではない。
私はこの歳になるまで、死後、極楽へ行きたいと願ったことは一度もない。これからもないだろう。実際にそんなことはありえないだろうなどという不謹慎な理由からではない。
一般に極楽浄土は四方にあるという。浄土真宗などは西方浄土を願うようだし、東方には瑠璃浄土、北方にはお釈迦さんの北方浄土、そして南方には補陀落浄土というのもあるらしい。
これに対し、十方浄土とか言って、浄土がもっとたくさんあると説く宗派や経典もある。いずれにしても、浄土は穢土と対になっており、「清らかなところ」という意味で使われている。この世が末法のご時世で、清くは生きられないから、せめて死後は輪廻転生の業を逃れて極楽浄土へ行きたいと願うことは摂理かもしれない。何もこれを妨げようとしているわけではない。
他方極楽浄土は、彼岸ではなく、こちら側にあると説くお経もあるようだ。が、この歳になれば、この世を極楽にする熱意もそうは続かない。
となれば、なぜお前は生きているのだという根本の疑問が出てきそうである。が、生きていることに理由などない。
とは言え、生きている以上は自分が生きている理由を自分に納得させていかねばならないこともある。
私の場合、楽しいと感じるのは個人のかかわりを土台にしている。私自身が楽しいことは当然として、周りの人も楽しいと感じて生きていける条件を整えていかねばなるまい。共に心楽しく生きていければ、これ以上何も望まないほど本懐である。
ほどほどに食べられて、暑さ寒さをしのげれば、人として生き、そして死んでいける。
千年の末法もほぼ終わりだから、楽しく清らかに生きていけるよう、少しばかり元気を出して今生を生きていくことにするか。
生きているうちは、人の上に人を造ってはいけないし、人の下に人を造ってもいけない。これが私の原則である。自分が楽しいと感じるには、相手も楽しいと感じる必要があるからだ。