極南界(4) -「倭國」の初見-

私は金印の文面から、「倭國之極南界也」を倭奴国が倭国の極南界にあると解した。実は、この「倭國」がやっかいなのである。范曄がどのようにこの「倭國」を理解していたのかを再度探っていかなければなるまい。
『後漢書』倭条にはこれに先立って、「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里」という文章がある。私の読み方を示しておく。
1 「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國」 『漢書』地理志燕地条の「夫樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」という情報を詳しくしたもので、前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより使駅を漢に通じる小国が三十ばかりあったという。『三國志』倭人条の「三十國」を漢代まで遡及した意味もある。
2 「國皆稱王 世世傳統」 国では皆王を称し、世代を継いで後漢代に至る。
3 「其大倭王居邪馬臺國」 その三十国の王中の王として「大倭王」が「邪馬臺國」にいた。
4 「樂浪郡徼去其國萬二千里」 楽浪郡徼から邪馬臺国まで一万二千里である。
5 「去其西北界拘邪韓國七千餘里」 その西北界にある拘邪韓国まで七千余里ある。この場合、「その西北界」の「その」が三十国のまとまりを指していることは間違いあるまい。
范曄はこの「三十許國」を倭国と理解していた可能性がある。彼は、臣瓚の「倭國」説を採用し、この「三十許國」の緩やかな繋がりを倭国と呼んだのではあるまいか。
これでよければ、倭奴国はこの「倭國」の極南界にあったことになる。後漢代には「邪馬臺國」が背景に退き、倭奴国が「倭國」の前面に出てきたことになるだろう。
「邪馬臺國」の所在は不明としても、倭奴国が「倭國」の南界に、拘邪韓国が西北界にあったことは確かめられる。
私は、金印の蛇鈕と『三國志』東夷傳倭人条における陳寿の記述から、倭奴国を越系統だと考えている。とは言え、この三十国全てを同系だと考えているわけではない。少なくとも「邪馬臺國」は異なる系統だっただろう。が、後漢代に越系の小国も相当数あったのではなかろうか。これを確かめるには二つの前提がいる。
1 「倭國大亂」後、呉系が三百年にわたって「倭國」の主たる勢力となった。これにより越系が背後に退き、その情報も残らなくなってしまった。
2 『舊唐書』の「倭國者古倭奴國也」から、梁代に倭奴国の後継国家が再び主たる勢力として復活した。
以上の結果、『梁書』東夷傳に越系の「文身國」「大漢國」が登場したと考えて、それぞれを後漢代まで遡らせたいのである。

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