任那日本府(5) -「慕韓」-

サブタイトルの「慕韓」が何のことか直ちに分かる人はそんなに多くないかもしれない。『宋書』倭國条で倭王として除正された王名中に含まれる国名の一つであると言えば、ああそうだったかとなるだろか。かつては、実態が不明とされ、その実在性すら疑われてきた。ここでは、その「慕韓」に実体があったことを示すつもりである。
『好太王碑文』に登場する「任那・加羅」がどうやら倭國の側で戦っていること(『任那日本府』(2))で、すでに倭国王名に信憑性のあることが一部証明されている。
また近年発見された張庚の『諸番職貢圖卷』斯羅國条から、少なくとも六世紀初頭まで新羅が倭国王に属することを示す史料(『任那日本府』(3)(4))が得られた。前者は金石であり、後者は公式史料に匹敵する同時代史料である。これから、私の立場を整理すると以下の通り。
1 『宋書』倭國条の信頼性が高くなり、同条に載る除正名もより信憑性のあることが確認された。従って、同名中に記されている「慕韓」「秦韓」という国もまた倭国王に属する国として実体のあることが疑い難くなった。
2 同条に記されている倭王武の自称名及び上表文そのものもまた信憑性が高くなった。宋朝がこの表に基づいて除正していることは間違いなく、「渡平海北 九十五國」、「句麗無道 圖欲見呑 掠抄邊隷」などの記事も文字通り解釈できるようになっただろう。「渡平海北 九十五國」は、倭国が高句麗と対峙している状況なら、必ずしも大げさとは言えまい。宋朝は、百済を除き、倭国が韓半島の「九十五國」をその勢力下にしていることをほぼ認めているのではないか。
「九十五國」が史実とすれば、『三國志』魏書韓条から、倭王が馬韓五十五國、辰韓十二國、弁辰韓十二國とその他十六國を支配下にしていたと読める。
以上宋朝が倭王に認めた「慕韓」に実体があり、国数から考えて「九十五國」に「馬韓」を含む可能性が高いとすれば、「慕韓」と「馬韓」が関連すると考えざるを得まい。但し宋朝が百済を承認していることから、五世紀の段階では、馬韓五十五国は倭国と百済及び高句麗に三分されつつあっただろう。
3 「慕」「馬」は、共通の声母をもつ双声字である。『説文』入門(61)で示したように両語の声母は「莫」であり、また同部の韻母とも解され、「慕韓」と「馬韓」とみればほぼ仮借字と解せる。
『職貢圖卷』の発見により、除正名中の新羅も倭国王に属することが証明されたのだから、「慕韓」もまた実在し、倭国に属する国だと傍証されたのではないか。他方信憑性の高くなった上表文中の「九十五國」という数から、倭国の王名に馬韓が含まれていたと考える他なく、「慕韓」「馬韓」が関連付けられるようになった。更に音韻もこれを支えているから、この両者は同一の実体を持つ「国」だったことになるだろう。次回は更に難解な「秦韓」を目指したい。