島谷用水(2) -常友の造成-

前回書いた常友の用水造成について、少しばかり修正しておきたい。常友は八幡城第三代当主の遠藤常友のことで、八幡町の原形を創った人物と評価されている。
私は用水(1)で、「としても、現在の姿はもとのままではないだろう。一部乙姫川から取水したとも考えられるし、赤谷川の水を一旦池に貯めて使った可能性も考えられる」と書いた。長老の話と史料を再検討した結果、以下のように補強しておく。
1 「としても、現在の姿はもとのままではないだろう」は、偶然としても、まあこれでよろしい。
2 「一部乙姫川から取水したとも考えられる」は、「寛文年間城下町絵図」によれば、乙姫川の本流が島谷用水に合流する形になっている。
現在の乙姫川は用水の下を潜っており、合流していないように見える。ただ乙姫川は立町あたりで分流しており、これが立町からどのようになっているのかは未確認だが、どこかで用水と合流しているかもしれない。この分流に関するものか、幾つか水争いの話が残っている。
従って、現在の流れだけ見れば乙姫川からは多くとも一部しか取水していないことになるが、これからの研究課題としておきたい。
3 「赤谷川の水を一旦池に貯めて使った可能性」は、考えなくてもよいかもしれない。赤谷は夏になると枯れそうになるぐらいで、当時としても安定した水量は期待できなかったのではないか。用水との合流地点に池はあったが、恐らく赤谷の水は入っていなかったと言う。
現在赤谷川は用水の下を潜っており、水位が相当低いので、確かに関連が薄そうだ。「城下町絵図」に載っていないし、遡るのは難しいかもしれない。
ただ池がいつ作られたのか、深さがどの程度だったかが不明だから、これもまた考慮する余地はある。
以上、島谷用水は承応年間の大火をきっかけに、常友が南町の動脈として吉田川本流から取水したと考えたい。建造当時から取水口が八幡大橋直下だったかどうか分からない。和良筋と田尻から明方へ向かう筋が分かれていく具合からすると、地図上では、もう少し上流だった可能性もある。
当時の幅や深さなどについては不明だが、明治時代の修復でやや川幅が広くなったと推測されている。
長老によると、敗戦後の段階では、用水は玉石を組んで護岸されていたそうである。恐らくはいわゆる野面(のずら)積みで、立ち上がりは1メートルほどではなかったか。積み石の間にウナギや小魚が結構おり、また床面が小石や砂だったそうで、その白砂の中にシジミがいたと云う話は前回書いた通りである。

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