桜の季節が過ぎて、落ち着いて考えられるようになった。少数意見として受け入れてもらえるだろうか。
私は桜がさほど好きではない。若い時ほどでないとしても、大きな木一杯に花がついているのを見ても華やぐことはないし、むしろ自己主張が強すぎて、鬱陶しいと思うことがある。
世はソメイヨシノという品種が好きらしい。一つ一つの花が大振りで、全体としても華やかさを感じるからかもしれない。
これに対し、愛宕公園へ行くと、石段を上がった右側に「墨染めの桜」と名付けられた老木がある。何でも、八幡城初代城主の遠藤慶隆が戦勝を記念して植えたことになっている。下の方はほとんど朽ちており、途中から小さな幹が伸びてなんとか生きながらえている。何回か花を見たが、やや小ぶりで可憐な様子であった。
慶隆がなぜ桜を植えたのか分からない。結局は稲葉方と和睦したとはいえ、戦闘で有能な部下を失っており、あるいは鎮魂のためだったかもしれない。愛宕は彼が攻め方として陣を敷いたところだからである。
潔く散るとしても、公園内であればさほど気にならないが、薄汚れた花びらが道脇にたまっているのを見るのは宜しくない。雨が降れば、すぐに泥にまみれてしまう。花が多すぎるからだろう。
散ってしまうと、今度は実がつく。サクランボ用としてしっかり管理してあるものとは異なり、それこそびっしりと小さな黒っぽい実がぼとぼと落ちている。並木であれば、道が黒っぽくなるほど散らばっている。
よけて通れないところでは、靴の裏に濃紺の実が幾つもつく。草履で歩いていると、気を付けていても、直接足の裏についてしまう。これがなかなか厄介で、少しばかり洗っても色が落ちない。
梅雨が明けて真夏ともなれば、日陰をつくるので、有り難いとは思う。が、何も蔭をつくるのは桜ばかりではない。どちらかと言えば、より背の高いケヤキの方が風も通って涼しいような気がする。
桜の便りがちらほら届くころになると、どこでもこれを礼賛しているように見える。単に私が天邪鬼にすぎず、美しいものを見る目が欠けているせいかもしれないが、いずこも似たような桜ではうんざりしないのかな。何だか遺伝子を操作しているかのようだ。川ぞいであれば柳もよいし、山を背景にするならもみじも中々である。その場その場に適した木を植えればよいものを、散歩道まで桜ばかりでは興ざめにならないか。
とは言え歳を取ってしまったせいか、周りとのバランスさえ取れていれば、やや離れて山際に咲いているのを見るのは悪くないような気もしてきている。