瓢岳(10) -那比の新宮(下)-
新宮については、まだこなれていない所があるのに、ここで一旦区切りをつけることになる。今回は、新宮宝物庫に奉納品として保存されている刺す叉を中心に据えてみたい。
宝物庫に保存されているものでは質量ともに豊富な懸仏がよく知られているが、その他にも木製の仏像や写経などじっくり取り組むべきものも多い。また多重塔の水煙なども圧巻である。
それらの中でも私の目についたのは、剣や薙刀などの武器に加え刺す叉のミニチュアが配置されている奉納額である。刺す叉は、これとは別に、かなりの数が下に置かれている。鉄製と思われ、持ち手から三本の棒が放射条に出ているだけの簡単な構造である。本当のところはその用途がはっきりしているわけではないが、数からして、継続して奉納されてきたことは間違いあるまい。
神仏分離及び廃仏毀釈の際に、拝殿の床下に隠したものの一つではないかと云う。とすれば、江戸時代末期ぐらいまでなら遡れても、それ以上はなかなか難しい。かつては新宮の祭りで、行列の一員が実際に持っていたものをミニチュア化して奉納したのではないかとするむきもある。が、奉納品に関する史料は見当たらない。
新宮は山の中だから、猿などの獣を捕える道具だと解釈できないわけではないが、構造からして鹿やイノシシなど大型動物には適さないように思われる。
私は、他にも剣や薙刀などの武具が奉納されており、刺す叉がこれらとセットになっている点を重視している。仮に神社への奉納品として武具があるとしても、刺す叉を加えるのは相当珍しいだろう。これがこの宮の本性を示しているような気がする。
『高賀宮記録』に、「岩屋は悪魔が住んでいたため、また住み着くことがないように社を建立し、神々を鎮座させて高賀山新宮大明神と号した」と読めるところがある。
やはり刺す叉は捕獲具として納められているのではないか。この宮を建てて悪鬼が再び荒びないよう鎮魂すると共に、例え復活したとしても、奉納したような武具で戦い、刺す叉で捕獲するぞという意思を感じる。
また刺す叉が法に背くものを生け捕りにする道具とすれば、行政権の行使に関連するだろう。私は瓢岳(6)で「片知山-南岳-瓢岳-高賀山の稜線がかつて武儀と郡上の境界であった時期も考えられるが、名号変更はこれに異変があったことを示す」と推測した。岩屋から新宮への変更が後に定着していることからすれば、刺す叉は朝廷中心の行政権が郡上で確立していくあたりまで遡る手がかりにならないか。岩屋の名義について説くスペースがなくなった。私は、泰澄大師が越知山の岩屋で修行したことが気になっている。