アナロジー

私は聞きなれないカタカナ語をめったに書かないが、「類推」や「推理」ではピンとこないので、あえてアナロジーという言葉を使ってみた。以下は私の場合を振り返っただけで、説得力があるかどうか分からない。
普通なにか情報があっても、ばらばらであれば、殆ど記憶に残ることがない。だが個別であっても、私にとって強烈なものは、何かことがあるたびにフラッシュバックする事もある。(少年期にリヤカーを引きながら電柱へ頭をぶつけ、目からたくさん星が出たことなど)
子細なことがらでも、何度も繰り返され整理されていくと、割合記憶に残っていくことがある。これらは、徐々に客観性が加わり、重要な知識になっていく。(自転車で走るときに、どの程度端に寄れば安全かなど)
この世は情報で溢れている。得ようと思えばテレビやラジオ、新聞やインターネットなど情報源は多いし、それなりに多様な見方がある。
だとしても興味が持てない分野や理解が届かないものなどは、あっという間に記憶から消えていく。自分には関係がないと断じてしまい、ただ走馬灯のように眺めているに過ぎないからだろう。
それでも、ある程度まとまっていて、本質をつくものやユニークな視点から述べていると感じるものはしばらく残っている。これにしても、自分の考えと照合したり現実の場面で実証しようとしない限り、やはり徐々に消えていく。
私の能力では、殆どがこれらの繰り返しで、記憶に残るものはさほど多くない。
だが情報をはし折ったり新たな視点を加えたりするなどさらに洗練することで、自分の根まではたと行き着くことがある。これらが日常で淘汰されるところまでくれば、ごくわずかではあるが知恵として生き延びるようだ。
ここまでくれば、仮にその時には採用されないとしても、意識下に眠っているだけで、適用できる状況になれば復活するものも出てくる。
逆にこうやって積み上げてきた「知恵」から個別の事柄を理解する際には、類型化してしまう癖に注意したい。歳をとると余計に、決まった論理をたどってしまう傾向がある。一方で熟練したかに見えるが、他方で頑固になってしまったとも言える。
ところで、前々回の「餅まき」(2013年10月28日付)で、私は農協が「餅まき」を「菓子まき」に鞍替えしたかという類推をした。ほぼ同じ時期に行われていたからだ。ところが二週間後に農業祭が行われ、その中でしっかり餅まきが行われたのである。
稚拙なアナロジーによって誤情報を流したことをお詫びすると共に、今回は餅を数個拾ったことを報告しておく。
これもまた愚かな話だが、私らしい誤りとして、長く記憶に残っていきそうだ。

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