郡上郡衙(2)

前回は郡上郡という命名から、郡衙が郡上郷の地に置かれたと考えた。同郷は、史料上、郡上里まで遡れる。今回は「保」の観点から迫ってみよう。
私は、郡上郡が設置に遡って郡上郷、和良郷、安郡郷、栗原郷の四郷だったと解している。和良郷が初めから和良保だったのか下之保に入っていたのか分からないが、後に中之保やら南之保、西之保などと並び保の真っただ中にあることは注目できる。
これが、荘園時代に、九頭宮が五保の総社と呼ばれた所以だろう。
安郡郷はまだ比定地がしっかりしていない。『八幡町史』では吉田川を遡る旧明方村一帯に充てている。だが、実を言うと、「安郡」をどう読むかすら特定できていない。
上記した「和良」の「和」「良」がいずれも『古事記』まで遡れる仮名だから、「安郡」もまた仮名だと考える説もある。
『古事記』まで遡れないとしても、確かに万葉仮名で「安」は「ア」だし、「群」なら「ク」である。他にも用例があるので、「郡」「群」は通用するだろう。実際にこの地域でも、「郡上」を「群上」として、「ク-シヤウ」と読まれている史料がある。これでよければ、「アク」ということになる。
また「上」が「シヤウ」だとすれば漢音を踏襲しており、「安」をまた「アン」とも読める理屈だ。この場合は「アンクン」などと読むのだろうか。終末の子音が消えるとすれば、「アンク」「アンコ」辺りまで守備範囲である。
これらを安易に歴史地名と比較することは慎むべきだが、あくまで仮説と分限をわきまえて「安具村」「安光」「安久田」などにあてれば、西和良村に関連しそうである。この地区とすれば、恐らく荘園時代にも中之保と呼ばれていだろうから、「中」の用語からして郡衙に近い印象がある。
栗原郷は、私もまた、凡そ上之保にあたると考えている。ただ設置時期にどのような範囲だったかまでは分からない。
郡衙は、武儀郡のみならず四郷への便がよく、政治上安定した場所に置かれるだろう。私は郡上における保には「堡(とりで)」の意味があったと解している。北から上之保が栗原郷、中之保が西和良で安郡郷、下之保が和良郷を含むとすれば、これらに郡衙が置かれるとは考えにくい。
四郷のうちで、「保」がつかないのは郡上郷のみである。とすれば、郡上郷の範囲が視野に入る。私なりの結論を言えば、旧美並村、旧八幡町である。前者は後に気良庄に侵略され一部が南之保になるとしても、武儀郡衙の位置からして、郡上郷の一部だったことは間違いあるまい。
ここまでくれば、やはり上之保、中之保、下之保の区分が気になる。上中下が郡衙の位置に関連すると考えざるをえない。

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