郡上郡衙(3)

ここまで郡上郡衙の位置を推定するため、二つの作業をしてきた。一つは「郡上郡」という名称から郡衙が郡上郷に置かれたと考え、一つは「保」の用法からまた郡上郷が有力であることを示した。今回は、中世史を通じて古代を透かして見ることにする。
郡上郷に関連しそうな史料を一つ。
「美濃國吉田庄の吉田、小野、中野、下田四郷領家職隼人佐行定、長年の勞苦がかく別であるによって、この土地を子孫に相傳させる由、さる康安元年(1361年)八月九日安堵状を賜った」(岐阜県史大興寺文書)とある。
『県史』はこの吉田庄について武芸郡とも池田郡かとも比定しているが、しっくりこない。吉田、小野、中野、下田が地名としてそろい、更にこの順に並んでいるのは郡上郡の他にない。これはまた『慶長郷帳』で上記した四郷が、村としてではあるが、他の小村から抜きんでた石高を記録されている点からも傍証できる。
中野村の例では、およそ740石とされている。川向にあたる向中野村が93石、名津佐村の73石などと比べれば一目瞭然である。これは、現在の中野地区だけをみれば多すぎるのであって、赤谷村、島方村、穀見村、中山村、門原村、西乙原村などを含んでいたことは間違いなかろう。
同様に吉田村もまた約630石、下田村は約840石、小野村は約320石となっている。これらは、それぞれ付近の小村を含めた石高を表しているだろう。いずれも、前代に四村が近隣の小村を束ねる役割をもっていたことを示している。つまりこれら四村が「郷」の中心で、別格の存在だった。
これからも大興寺文書での四郷が、後代に痕跡を残しており、それぞれ実態を持っていることになる。よって『郷帳』もまた、吉田庄が郡上にあったと解せる有力な根拠になるだろう。私は、この吉田庄が郡上郷の一部を襲っていたと考えている。
これら以外の例えば「こたら村」や「五町村」などもまた、保の地名になずまないこと、赤谷村や島方村との位置関係から、郡上郷に入っていた可能性がある。
この「こたら村」から、吉田川沿いに五町村を経由して長良川上流へ上之保道が通り、また中坪村、是本村、中切村から西洞村などを経由すればやはり上之保へ通じる。
これに対し、中野村から南へ下川筋が通る。これは中野が下川なのではなく、長良川下流ないし「下田郷」へ下る道という意味だろう。
これらから、中野村が庄園時代へ遡っても「中」だったと考えてよさそうだ。また旧美並村が郡上郷に入るとしても、庄園時代の下田郷という名からすれば、ここに前代の中心部があったとは考えにくい。
中野村の東に「中之保」があり、これが郡の新設に遡れるとすれば、両者が郡上郷及び郡上郡の中心に関連していると解せないか。

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