「さ」の話(上)

ここで言う「さ」は「鶴佐(つるさ)」や「川佐(かわさ)」など郡上の地名につくもので、相当前から温めてきたが、ずっと歯が立たない。すべて語尾についているので何らかの接尾語だろうと推定できても、それ以上は今なお見当がつかない。ここらで一旦、もがいた跡をまとめてみる。
吉田川筋では北から畑佐(はたさ)、鶴佐、川佐、長良川筋では越佐(こっさ)、坪佐(つぼさ)、名津佐(なづさ)、那比川筋では黒佐(くろさ)などがある。
『國語大辭典』(三省堂)で関連しそうなのは、接尾語とされるもので、二つある。あまりピンとこないが、少し検討してみよう。
1 名詞について、方向の意をつけ加える。「堅樣(かたさ)にも かにも横樣(よこさ)も 奴とぞ 吾はありける 主の殿門に」(『萬葉集』4132)
2 移動を表す動詞について、移動の途次であることを示す。「帰るさに」(『萬葉集』3614)、「往くさ來さ」(『萬葉集』281)
上記した例では、名詞の場合が「川佐」「坪佐」「畑佐」「黒佐」、動詞の場合が「越佐」、いずれとも判定しがたいのが「名津佐」「鶴佐」ということになりそうだ。
名詞の四例では、地勢からして、いずれも方向だけでは不十分。動詞の例では「越す途中」となりそうだが、意味不明である。「鶴」を「つる」という動詞とみても同様だ。ただ、「名津佐」は方向を目指す状態とされる「名具佐」と関連する可能性はある。
以上から、これらの定義では充分とは言えないだろう。そこで、別の角度から見ていく他ない。
古代や中世を通じて、通行があったとしか考えられないのに、その交通路が見えてこないところが多い。ただ、私は鶴佐と川佐を吉田川の右岸と左岸を結ぶ主要なルートにあててきた。
武儀の上之保から小那比筋へ入るとしてもそれ以北がはっきりしない。和良筋を経由しても同じ。古代でも堀越峠からそのまま赤谷まで下りる道がなかったとは言えないが、これが主要道であったとは考えにくい。この径が注目されたのは中世に入ってからで、それも合戦に関わる非日常のものだった気がする。それ以前の痕跡が全くないからだ。
堀越からは安久田川ぞいに千虎まで下る道がある。十四世紀以前まで遡れるとすれば、中野郷へ通じる道だったことになる。また峠から鬼谷(おんだに)へ抜ける道もあった。鬼谷からは川佐へ抜けられる。
私は、この川佐ないし鶴佐から小駄良筋へ通じていたと考えており、「さ」が関連すると考えている。いずれもこのあたりで川幅が狭くなっており、つり橋ないしかけ橋が可能だったのではないか。中途半端なので、次回また。

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