不息二題

かつて私が通っていた高校の校訓は「自彊不息」というものだった。同窓会の会報によると、今も変わらないようだ。当時は自分勝手に解釈していたに過ぎないと思う。誰かに教えを乞い、しっかり学んでいれば、もう少し理解が進んでいただろう。
「彊」は「強」に通じ、「ジキャウ-フソク」と読む。たとえ読めても、当時の私には意味が分からなかった。すでに手遅れの観もぬぐえないが、出来の悪い人生を振り返ってみるのも面白そうだ。
いつだったか『易經』を読んでいる時に、この句を「発見」して、懐かしい気分になったことを覚えている。
「君子以自強不息」(『周易』卷第一乾卦)とあり、「君子もって自強して息(や)まず」と訓まれている。解は一通りではないとしても、まあ「君子はみずから努め励むことを怠ってはならない」あたりか。
今思うと、君子たる身ではないから、ずい分理想の高い校訓だと思う。そういえば、我が町の高校に「潜龍館」という建物がある。これもまた、『易經』に範をとっている。先達がどれほど志高く学んだか、また後輩にも如何に高邁な心構えを望んでいるかが分かる。
高校生といえば、生意気盛りの年頃で、落ち着いて意味をつかめるとは思えない。理不尽な境遇を歎き、恋に悩む。誰しも自立する過程でこれらの洗礼を受けるだろう。私もまた、立ち止まり、行く先は闇の中だった。
近ごろ寝る前に眺めている『千字文』に、「川流不息(センリウ-フソク)」(69)という句があった。やはり「川が流れて、息むことがなく」と訓まれている。これは修養する人の態度を教えている文脈だから、若者にたゆまず学問するよう励ましていることになる。いつまでも若いわけではない。一瞬たりとも無駄にはできないぞ。
川の水を眺めていると、知らず知らずのうちに、けっこう時間が経っていることがある。天気がよければ、同年代の連中が川辺へやってきて、川面を眺めながら飽きもせず夕方まで四方山話をしている。
これを解く鍵は、流水にあるのではないか。孔子は「予在川上曰 逝者如斯」(『論語』子罕)と言っている。川辺にあって、「生死は水が流れるが如し」と喝破した。
毎日飽きず眺められるのは、川の水が常に新しいからだろう。時間もまた同じで、一刻も休むことがない。これらはゴール近くなって、やっと分かってきた。自分の思い描いた人生には手が届かないとしても、流水のように、息むことなくしっかり自分を貫きたいものだ。
だが仮にもう一度人生を繰り返せるとしても、青年時代なら、やはり至る所で道草をするに違いない。

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