歳をとるということ

この歳になって知っていることの何と少ないことよ。長年ここに暮らしていながら、近所のことはおろか自分のことすらぼんやりである。まして、この世の事となると気が遠くなる。
誰が意図したのでもなかろうに、すっかり世間が変わってしまった。或いは私自身が老いぼれてしまっただけかもしれぬ。
私がここで暮らすようになってから、わが班のどの家を思い浮かべても一人や二人は亡くなっている。私の代から始まっているからか、我が家は幸運にも皆生きている。ここらでは若い世代に継がれることが少なく、滅びた家も一つや二つではない。
引っ込み思案の性分もあり、私の近所づきあいが若い世代へ更新されることは稀だ。近所が疲弊するにつれ、知識欲も減退しているかもしれない。段々浦島太郎になっていく。
分からなかったことが解けていくのは確かに楽しい。だが、例え少しばかり分かったとしても、そこから何倍も未知なるものが控えている。闇の中で少しばかり知ったところで、何が変わるわけもない。知らないでおけば、くよくよ考えることもなかろうに。人の業というやつか。
若い時には誰でも、不条理を歎き、理性に憧れる。人は考えに考え、暗闇を切り裂こうとする。歳をとっても、次の世代へ確かなものを伝えようと妥協しない人もいる。
さてどうするか。
そこそこ働き、それなりに衣食住を整え、気持ちのよい生活をする。私の描いた人生である。それでも若い時には自分を少しでも広げようと苦心惨憺してきた。振り返ってみると、その程度たるや、目を覆いたくなる。青年時代からすでにぎらぎらした野心は消え果てていたのかもしれない。
日々新たな知の航海へ出ているのであれば、未知なるものが現れるたびにワクワクするだろう。これも人生を楽しむコツである。まあ歳をとれば、経験を積んできたとしても、力の限界を弁えるようになるがね。
人との関係でも積み上げてきたものがどうも薄っぺらく見える。交友関係を大切に育んできても、ふとしたことで切れてしまう。若い時なら、修復を急ぎ、繋ぎとめようとするだろう。だがこの歳になると、切れて消えてしまうならそれだけのものだったということで、それほど惜しいと思えない。しっかりつなぎ留めておきたいと考えることもなくなってきた。
こういった飾りを取り除いて、つき合えるものだけに絞りたい。やることの多さを思えば、それほど残された人生は長くない。自ら芝居をし、仲良く見せる必要がなくなってきた。ただ、これもまた根気がなくなってきただけかもしれない。

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