弱音をはく

人は時として弱音を吐くことがある。若い時ならそんな自分を嫌い、さげすむことだろう。だがすっかり歳を取ってしまった今なら、ほとんどの面で下降線にあり、リアリティを持つ。ここまでくれば、弱音をはいたところで、ちょっとした休憩みたいなものか。
3月11日に八幡の街中でサイレンが鳴った。どんな意味なのか確かめていないが、日時からすれば、東日本大震災を意識していることは間違いあるまい。死者への黙とうと被災者への励ましがあるだろう。我々は忘れていないという意思表示かもしれない。
或いは町民に向かって不測の事態に警戒を怠るなという意味もあるか。八幡はわりあい穏やかで災害が多くないとしても、無いわけではない。
被災地から避難して遠隔地で暮らし、戻りたくても戻れない人の話も聞く。故郷がかけがいのない人なら、断腸の思いに違いない。少しずつでも失ったものを取り戻そうと必死に働いているだろう。が、頑張りすぎてはいけない。
すでに五年が経ち、それぞれの場所で、根がつき始めている人もいるだろう。だが、少なくとも自分の代は、うまく故郷とバランスを取りたいと思うのではないか。
人力で自然を抑え込むことはできない。これに打ち勝つことはできないとしても、共生は目指せる。大したことでなくとも、自分のできることなら、やる気になる。私も震災を経験しており、この間の事情について少しは分かる。
近ごろまた葬式に参列した。参列するたびに、死を実感する。死者の顔に親近感を持つことさえある。
忍び寄る老化に対抗する術がない。目や歯の衰えは隠せない。見聞きしたところでは、寝たきりの苦しみは耐え難いらしい。いつ襲ってくるかもしれぬガンや脳溢血を思えば、それなりに元気であることが不思議な気がする。すでに病気になっているのに、気づいていないだけかもしれない。
健康のためにテニスや、速めのウォーキングをする人がいる。が、どうも私には向いていないらしい。近ごろ筋力トレーニングはやっている。できれば自分の足で立って、自分の力で生きたいからである。とは言え、腹筋と背筋を鍛えるぐらい。
百姓をやっている同年代の友人は、仕事上足腰が大事なので、スクワットをやっているらしい。まあ、いずれもしても、こんなことは気休めに過ぎないような気もするがね。
決して長生きを望んでいるわけでないが、できれば寝たきりになりたくない。というセリフは欲が深いような気がしてきた。
いつ迎えに来ても気持ちよく行けるよう、怠らないようにしたい。ただし現状では、継続している仕事や趣味の区切りがつかないので、まだ準備が整っていないと言うべきか。

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