つじつま

筋道が立って分かりよいことを積み上げると綺麗だし、説得力があるようにみえる。それに何より論理的で向かうところ敵なし状態になる。ところが、この世は分からないことだらけで、つじつまの合わないことがあちこちに転がっている。
前回書いた「道」の中で、大矢-勝原-河和上(こうわかみ)の東街道が多く利用されるようになったと書いた。これに対し、上河和(かみこうわ)ではないかとの指摘を受けた。今では確かにこのほうが通りがよい。
もう少し補足しておくと、遠藤氏が藩主の時代は大矢経由の枝道を多く使ったようである。遠藤氏が和良を拠点にして八幡、上保へ進出したことから、井上、金森、青山と藩主が変わっていく過程でも、徳川の旗本になって和良筋を中心に知行を得たようである。これから川を渡らなくてもよい長良川左岸の大矢を経由して、物資が集積した笠松へ年貢を送ったとも考えられる。西乙原など長良川右岸の遠藤領の場合は下田の渡しで大矢を経由したのだろう。
読む人を前提にする以上分かりよい用語にすべきだが、何せ昔のことなので、史料に書いてあることを優先する癖がついている。違和感を持つとしても、このような呼び方の時代もあったかも知れぬと緩く考えていただければ幸甚である。
さて、今回は少しばかり粥川と那比を比較してみたい。那比の方からすると、主として足瀬から大足谷沿いに登り稜線にとりつくルート、新宮川を遡って八王子峠から粥川へ行くルートが考えられる。前者の道を通って粥川から嫁にくる話があるので、どちらが古いのか分からない。同じ粥川でも、違う場所へ出るというようなことがあったかもしれない。
粥川村は宝暦六年(1756年)の『郡上郡村高覚帳』によると、家数56であった。明治五年(1872年)の『村明細帳』でも家数57で、ほとんど変わらない。これに対し同じ史料で、那比村は家数が99から174へ大幅に増加している。
両者の馬数を比較してみると、意外にも粥川の馬数は零である。那比の方は、宝暦年間は不明で、明治五年では126となっている。
そして両者とも牛の飼育数は記録されていない。恐らく零だったのはないか。下川筋で牛を飼う村はないからだ。高賀六社という並びで言えば、それぞれ谷戸(たんど)から牛が入れないので、宗教上の理由も考えられる。
なぜ粥川村の家数がほとんど変わらなかったのかは意見の分かれるところ。
ウナギを捕獲する者に対して「本村冠婚葬祭等ノ節、交際ヲ絶ツモノトス」(明治十八年「粥川区規定」)とあるように、外部との接触に難しいところがあった。またタブーの牛のみならず馬も全く飼育しないわけだから、縛りが相当きつかったと考えてよかろう。木地師の多い土地柄だが、江戸期後半の商品経済へ対応が遅れたか。

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