いざ書き始めると、思いが溢れて何から始めてよいのか分からない。歩いた後を振り返ってみれば、道になっているだろうか。浮草のような生き方なので、確たる道筋はなかろうし、自分をたどることに意味があるようには思えない。
この間から寝る前に眺めているある資料から気づいたことがあった。郡上から下へ行く街道についてである。
長滝寺蔵の『莊嚴講記録』に「寬文八年(1668年)下川大屋道始、ソレ故立花ヨリ下田道留ル」とあり、もと郡上街道は苅安-下田-木尾-立花-須原を通っていた。
これが、大矢-勝原-河和上(こうわかみ)の道筋に変更された。元禄期あたりを念頭に置いている。これにより旗本領が多かった和良や下保、幕府直轄領であった西和良の年貢が大矢村を経由して笠松へ運ばれるようになったという。西乙原村など下川筋にあった旗本領もこれにならったかもしれない。
道筋が変わって新たな起点となった大矢は、宝暦六年(1756年)の家数は75軒だった。ところが明治五年(1872年)には109軒、馬四十を抱えるまでになっている。
これに対し苅安は同じ年号で比べてみると、上苅安村が44軒から41軒、下苅安村が108軒から89軒へ減少している。
この約百年で、郡上各地区の村で軒数が減少している所は少なく、下川筋では苅安のみである。軒数が減った原因を特定したいが、はっきりしない。そこで一つの要因として、この交通路の変更を考えたいのである。
和良筋や下川筋から、米のみならず炭などの物資も大矢に集まったわけだから、これを運搬するには馬や馬士のみならず舟便が必要になる。また笠松から帰る際には塩など様々な物資が運ばれていただろう。これを郡上各地へ売り歩く者たちも生まれたのではないか。また蹄鉄を打つにも鍛冶職人が必要である。
かように下川筋で大矢が他の村に抜きん出て軒数が増えたのは、下苅安村が大幅に軒数を減らしていることに対応していると考えるわけだ。
現在においても、新たに道路やトンネルができると、すっかり人の流れが変わってしまう。人の流れが変わると、近隣の姿をすっかり変えてしまうことがある。
私は以上から、郡上においても江戸時代後半には商品経済がかなり重要になっている点を明らかにしたいのである。
郡上では更に、この大矢を越える規模で、軒数、人口共に増加しているところがある。行政区が変わったり、分家などの勢いに違いがあるだろうから単純に戸数を比べるわけにはいかないけれども、那比や島馬場の増加幅がすごい。前者が99軒から174軒、後者に至っては82軒から168軒である。私は、馬産や薪炭など商品経済がこれに関連すると推測している。この地における毛付けの賑わいが思い浮かぶ。

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