牛と馬(2)

郡上踊りの真っ盛り。どこもかしこも、三味線と太鼓に合わせて、うなり声が聞こえてくる。その文句に「向小駄良の牛の子見やれ、親が黒けりゃ子も黒い」というのがある。
このシリーズでは、郡上は白山信仰一色でもないし高賀山信仰一色でもないことを示そうとしている。
前回は江戸時代に遡って、板取川の中流域左岸にあたる高賀、白谷、加部、門出で牛の飼育はなく、対岸にあたる小瀬見、老洞、松谷の集落では牛を中心に飼っていたことを示し、板取川が高賀山信仰の西界であると考えた。
さらに板取の杉原、島口、門原、三洞から内ヶ谷を越えて大和までのルートもまた、白山神社の分布から、高賀山信仰の北界を示していそうだ。今回はその続編で、上之保筋について楽しんでみたい。
正和六年(1317年)の平宗常譲状に「山田庄馬庭郷内為真名」とあり、「馬庭郷」は、今の万場から白鳥為真を含む広域の郷であった。以前にも触れたように「馬庭」は「ばんば」と読まれることが多い。
時代が下って長徳寺蔵の「方便法身尊象裏書」に、「長禄元年(1457年) 濃州郡上郡□□郷馬場□」とあり、「馬場」になっている。正保郷帳にもやはり「馬場村」とある。寛文二年(1662年)に野方新田が開発され、「今万場村」として独立した。
この流れで行くと郷名の「馬庭」は「馬場」であり、郷名ともなった「馬場」から「万場」へ音変化があったことになるかもしれない。
宝暦四年(1754年)の万場村明細帳では馬18-牛32である。これが明治五年の明細帳をみると馬40-牛0ですべて馬の飼育になっている。
因みに旧郷内である為真では牛馬について古い史料が見当たらないが、明治五年(1872年)の段階で、馬32-牛20となっている。これらをどう見るか。
それぞれ明らかにするには更に上流域を調べてみる必要がある。向小駄良村では宝暦四年の村明細帳が残っており、馬8-牛16である。明治五年の明細帳では、白鳥村で馬11-牛41、向小駄良村で馬7-牛36、二日町村で馬22-牛40となっている。牛馬について諸説ある中、意外な史実と言ってよい。
私は上之保の北部が牛の飼育を中心にしている点を重視している。郡上における白山信仰の拠点だからである。
以上、江戸中期における万場は牛が中心だから、ここがかつて白山信仰の中心域に含まれており、やはり白山信仰の美濃馬場(ばんば)だったことになりそうだ。明治の初めに万場がすべて馬の飼育になっているのは、島万場や那比の例から、江戸後期に商品経済が活発になった為とみている。少なくとも江戸中期以前は、牛が根強い為真を含め、万場より北は牛文化圏だったとみてよかろう。

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