牛と馬(3) -北限-

前回は、長良川沿いの上之保筋を取り上げた。万場がかつては牛飼育圏とみられるので、白山信仰の中心域に含まれると推定した。
だが、その南に当たる剣(つるぎ)、徳永、名皿部(なさらべ)から河辺(かべ)あたりは明治の史料では馬のみの飼育だが、万場の例があり、まだ特定はできていない。中世より、南宮神社や熊野神社など南の要素が入っているようなので難しい。南北の要素が入り交じり、グレイゾーンのようである。
今回は北の境界をさらに東へ伸ばしていきたい。二本が考えられる。
1 古道(ふるみち)から寒水まで。
これより北にあたる大間見(おおまみ)、小間見(こまみ)、栗巣など白山神社の分布が濃く、古道の入り口から明建神社、白山神社、神明神社がいりみだれているようにみえる。
ただ、明建神社にしても神明神社にしても平安時代までさかのぼることが難しいので、かく乱要因に過ぎないかもしれない。
2 枝道がいく本かあるうち、境界に関連しそうなのは神路(かんじ)から小駄良を経由してやはり寒水へ行く道が興味深い。
途中、戒仏(かいぶつ)から八幡の稚児山が見える。稚児山は、田尻白山神社の由来から、もとは白山信仰に関連するという感触がある。だが他方で、高賀山との関連も深い。言わば両信仰の接点にあたるところで、私は国見が行われた場所ではないかと推測している。
したがってこれが本筋で、白山信仰と高賀山信仰が政治経済上の対立構造を含んでいた可能性もあろう。
さて寒水である。白山神社で行われる掛踊りはよく知られている。私も何回か見る機会があった。
隣の気良筋は東西共に白山神社であるし、畑佐や奥住などから小川まですべて白山神社だ。寒水は白山信仰圏の真っただ中にあるといっても過言ではない。
以前その読み方について触れたことがある。江戸末期の史料に「かのみず」と読まれており、地元でもそのように呼んでいる。ことさら騒ぎを起こすまでもないが、これを中世まで遡らせる不安と共に、一つの腹案があった。
『歸鴈記』という書物に、越前穴馬の事として「凝水石」という記述がある。「また、この辺りに滝あり、其水に浸たる物はすべて木の枝、くさの葉やうの類まで皆其ままかたまりて、是を寒水(かんすい)石といふ」というもので、さらに「氷たる物を見る様なれどもいと重し、五月の末つかた迄も雪消えぬ所なり」とある。
石灰の解けた水が底にある木の枝などを石化してしまうことを言っているのだろう。

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