隣国
本邦は島国だから、理屈を言えば、海を隔てる隣国は多い。今回は歴史上でも継続して関わりの深い大韓民国を少しばかり取り上げてみる。
韓国は朝鮮半島のほぼ南半分を占めており、北半分と比べて気候風土が穏やかなようである。長い交流があるのでどこから切り出せばよいか分からない。書く気になったのはここ十年ばかりについてなので、できる限りテーマを絞っていくしかなさそうである。
本邦においては、明治維新を契機に近代へ歩み始めたと考える人が多いだろう。
家父長制が厳然と残る時代は、個人はこの「家」から自立しようともがく他なかった。未だ臍の緒が切れたと言えないにしても、大正モダニズムでは個人の自由を謳歌し始めていただろう。そして敗戦。
戦後の自由は自ら勝ち取ったものではないが、私は、徐々にこれが社会の隅々まで行き渡ったと感じている。核家族化が進み、守るべき家や墓がどんどん軽くなってきた。一方で寂しい思いをしながら、他方で個人の自立が奨励されるようになったと解してよかろう。
これが法の土台となる。相変わらず個人は族や家から離れられないとしても、最早かつての縛りほどきつくはない。個人が直接国家と向かい合えるようになった。
戦後の教育と選挙で鍛え上げられたと考えてよいかもしれない。私の脳裏に阪神淡路大震災が浮かぶ。ひどい災害だったが、被災者は秩序を乱さず、殆ど犯罪行為を起こさなかった。凡そ我々の生活が法の下で平等に行われているという信頼感があったからだろう。
これこそ明治維新から目指してきた近代化の一つの成果と言える。法の精神が個人の心の奥まで届き始めたのではないか。東日本大震災でもやはり法治が貫かれた。我々は、様々な課題を有しながら、一応ここまで到達した。
民族主義やナショナリズムが悪いわけではない。勃興する国家には多かれ少なかれこのような骨組みが必要である。ただこれが行き過ぎると、至る所で軋轢を生じ、落ち着いて問題を解決できなくなる。
正義や情は人間らしく生きるに欠かせない。だがこれを「公」に持ち込むのはご法度である。必ず「私」が幅を利かすことになる。正義は人に勇気や断固とした決意を与えるとしても、全ての人にとっての正義はどこにもない。
どんな理由があれ対馬から盗んだ仏像を返さないのはいけない。事ここに至れば国家ぐるみの犯罪で、北朝鮮の拉致事件と本質は変わらない。宗教に関わるので、ある意味では更に深刻な問題だ。二国間の取り決めや国際法についても、一部の国内事情で破棄してしまうことは許されない。共に近代を築いていこうではないか。