死者を送る

先週、知人が二人亡くなった。田舎でも葬儀屋が結構はやるご時世だ。目の前にいなくなると急速にイメージが消えていく。そんな中でも縁を感じたので書き残す気になった。若い人でも夭折することがあるし、いずれは年をとってこの世とおさらばする。鬱陶しい話にならないようにしたい。

一人は友人の義姉で、顔もおぼろなのに、奇妙な縁があった。今年に入ってからのことだと記憶している。病院の二階にある手術室待合で待機していると、顔見知りの人が入ってくる。友人の実兄である。なぜか私は言葉を交わすこともなく黙っていた。何となく看護師さんから漏れ聞く話では、ほぼ同時刻に手術が行われるようす。手術だから簡単なものはないだろうが、彼の方もさほど重大な施術にならないような顔色だった。どちらが早く終わったのか覚えていないが、どちらもうまく行っている気がしていた。それなのに今月に入って急逝したという。病名はあの時とは直接関係なさそうだった。

もう一人は古くからの知り合いで、初めて会ってから四十年前後経っている。やっぱりちょっとした因縁があった。温かくなってきたのもあり、リフレッシュしたいということで、スクーターに乗って彼の所へでも行こうと家を出た。小駄良筋へ入り暫くすると、どうゆうわけか別の知人のことが頭に浮かんできた。一瞬躊躇したものの、そのまま道草してしまった。世間話をしながら長居してしまい、その日は彼を訪問できなかった。二三日後だったかな、彼が死んだという報を耳にして驚くやら、寂しいやら。私が出かけた日にはまだ生きていたそうな。これは残念なことをした。

彼は中々の勉強家で、図書館の二階でばったり出くわしたこともあった。郷土史に通じ、古文書も上手に読めているようだった。これまでの成果を自慢げに披露することが何度かあった。彼の作った資料を幾つか預かっている。特に百姓一揆や幕末の小駄良について詳しかったと思う。長年遠ざかっていた碁につき、再度打つきっかけをつくってくれた人でもある。合掌して冥福を祈りたい。

振り返ってみると、随分沢山の人を送ってきた。都会に住む人なら個人を主体にした付合いが多いだろう。付き合う範囲が広い人もそうでない人もいよう。ところが田舎では、昔ほどでないとしても、家と家というような付き合い方になる。友人の奥さんやら兄弟にいたるまで人間関係が深く絡み合っている。世間が狭い。

若い時にはこういったしがらみは煩わしいと感じてきたが、今はそれほどでもない。自分が生きているというのは、友人知人が先に死んでいくということ。まことに寂しいが、彼らの縁者が残っているのは少しばかり心を温めてくれる。

田舎では彼らの背負っている歴史や風土と共に付き合うので、行動範囲が広い程、それぞれの味わいが楽しめる。                                               髭じいさん

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