志を得ず

近ごろ、ゴールが近付いてきたということで、少しずつ人生を要約するようになった。以下はあくまで私の場合であって、誰かを念頭に置いているわけではない。

残念ながら、私に若いころから高邁な志があったわけではない。周りには密かに理想を抱き、学問に精を出していた人もいただろうに。それでも恥ずかしながら、自分を理不尽な縛りから解放するだの、幾らかでも愚かさから抜け出せるように努めてきた。としても一心不乱に何かを求めてきたわけではないし、成果はおして知るべし。

自らをしがらみから開放し穏やかに生きているかと言えば、否である。幾らかでも愚かさから抜け出せたかと問えば、また否である。

学問にしても、自分を厳しく戒めてきたわけでも良い習慣がついたわけでもない。何やら自分に言い訳をしながら緩い条件で続けて来たに過ぎない。ちゃんと勉強をしておけば、今頃こんな苦労をしなかったかもしれない。

長年続けてきた仕事についても、成果を問われれば恥ずかしい限りで、口に出すのもおこがましい。職人気質の人なら、年齢が重なり、関わっている技術などでより完成度が上るというような期待が持てるかもしれない。ところが私はその日暮らしで生きてきただけなのでどの面を切り取っても中途半端になるよりない。

経済面にしてもそうだ。健康さえ保てれば何とかなるという考えでやってきた。これまでは何とかやってこれた。が、年齢が重なってくれば生活習慣病のみならず遺伝性の病気も待ったなしである。かくの如き脳天気な生活を望むことが難しくなってきた。

思わず長生きしてしまったというのが実感だ。大ざっぱに考えても、此処に至って準備の無さを思い知る。若いころから、自分が年老いて誰かの助けを必要とするなんぞ考えたくなかった。実際に年を重ねてみると、目は見えにくくなるし、健全な歯もすっかり少なくなった。ちょっとした雪かきや遠出でも足腰が痛む。すっかり体は弱るし、溌溂とした決断力も失せてしまった。いわゆる老衰というやつだ。

自分の人生でやれることをやる他ないのに、日暮れて途遠し。今となってはもう一回人生をやり直せるとしてもやり切れないほどの作業が残っている。

『禮記』儒行に「儒有不隕穫於貧賤」(卷第五十九)という文句があり、鄭玄注に「隕穫 困迫失志之貌也」とある。生活が困迫すれば志も失せて、ただただ老いぼれていく。だとしても事ここに至り、一日一日安穏に過ごせるのであれば文句はない。生きてきた道中を悔いているわけでもない。

悔いることがあるとすれば、どうしようもなく無能で愚かであったことぐらいかな。                                               髭じいさん

前の記事

西ウレ峠

次の記事

新生