悲しい話

十六世紀にさかのぼる。東氏は、承久の乱(1221年)での功績が認められ、新補地頭として郡上に入った。その後、土岐氏や朝倉氏などの攻撃に耐え、ほぼ三百年以上も郡上の中心域で有力であった。
越前朝倉氏の攻撃は脅威であったらしく、常慶(つねよし)・常尭(つねたか)親子は再度の攻撃を恐れ、大和の篠脇から八幡の東殿山に本拠を移した。
東氏と遠藤氏を簡単に同族とは言えない。東氏は桓武平氏の千葉氏流を汲むが、遠藤氏は「藤」からして平氏流と同一視できない。遠藤氏は徐々に力をつけ、旧気良荘を中心に、十五世紀前半から東氏に次ぐ力をつけてきた。
常尭は、遠藤胤縁(たねより)の娘に縁談を申し込んだのを断られ、永禄二年(1559年)八月一日、登城した胤縁を部下に命じて鉄砲で撃ち殺させた。そのため、胤縁の弟遠藤盛数は兵を起こし、東殿山城を火矢で攻めた。東氏は奮戦したものの、八月二十四日に城は落ちたとされる。
この時の話である。東氏の腹心であった羽生家の伝承では、常慶は城から逃れて愛宕山へ下り、ここでも激しい戦いがあったものの利あらず、更に吉田川を渡ろうとした時に馬が「油石」に足を取られ、投げ出された常慶はあえなく首を取られたとある。他方、奥方や姫君などは城の東方なる険しい谷底に身を投げた。だから、いまもって地獄谷と呼ばれているという。
ところが、北辰寺にある常慶の位牌で命日は二年後の永禄四年(1561年)八月二十四日になっており、日付は同じでも、伝承とは二年の違いがある。
位牌という史料と伝承が食い違っており、いずれを選択するべきかという問題。