金印(13) -「女王國」は呉系-

前回は、金印の蛇鈕と『三國志』倭人条での陳寿の記述から、「委奴國」が越種を主たる勢力とする国だと推定した。これは陳寿が倭人条を東夷伝に配した事と矛盾するようだが、彼が敢えて倭人を越系と見なしたことに意味がある。この点はいずれ纏めて言及できるかもしれない。それでは、「女王國」はどうか。
同倭人条に「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與」という記述がある。
卑弥呼が死亡した後、男王を立てたものの国中が服さず、また彼女の宗女である「壹與」を立てた。その彼女が中国に送った使節が出自について述べている史料がある。『晉書』東夷傳倭人条に「自謂太伯之後」とあり、彼らが自ら「呉の太伯」の後裔であると云う。
同条には「泰始初遣使重訳入貢」とあり、外交をしているのであるから、単なる流伝を記しているのではなく、「大夫」が政府の正当性を主張する意味で公式に「太伯之後」を自称したとみられる。
『梁書』倭条では冒頭に「倭者 自云太伯之後 俗皆文身」とあり、倭王武が梁朝と公式に通行したのであるから、倭国王自ら「太伯之後」と述べた可能性が高い。
また『北史』倭國条でも「自云太伯之後」である。恐らく、倭人自らその出自を公式に内外へ示したとして、自称としてではあるがこれを認めている。
以上から、私は卑弥呼から倭の五王まで呉系統が続いたとみている。その後、『舊唐書』の「倭國者古倭奴國也」と云う記述から、再度越系に交代したと考えている。
さて、呉種もまた越種と共に長く「文身斷髮」の習俗をもっていたようだ。『史記』呉太伯世家第一に「文身斷髮示不可用」とあり、応劭注に「常在水中 故斷其髮 文其身 以象龍子 不見傷害」とあって、呉もまた一部南蛮の習俗を受け入れた。
だからと言って、呉系を南蛮とみることはできない。『論語』泰伯第八で太伯が聖人として扱われ、『史記』世家でも呉が第一に取り上げられており、太伯・仲雍のみならず延陵の季子など、呉が聖人君子を生む国と描かれている。
陳寿は『漢書』地理志をうけ、倭人の中心たる勢力が越系から呉系へ変わったことを示すため倭人条を東夷伝に入れたのであって、前漢から魏晉までの通史を書いたと考えれば倭人を越系に解したとしても問題はなかろう。

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